配置、整合性、うまさということは、「目的」によくあっているかどうかによって、に向けて、を経由して、決定される。
別のアングルから見れば、目的というのはそれによって、それに向けて(目がけて)、それを経由して、像(視界)が結ばれるところの「それ(焦点)」である。
ではなぜ、いま、「それ」が目的となっているのか。
何かしらの理由が挙げられるだろう。
ではさらにその理由について、なぜかと問うことができる。
しかしなぜ、なぜと遡及的に問うていくとやがて答えに窮するだろう。
そこで「あるものがあるようであることはただそれがあるものであるからだ」、「あるものはあるものだからだ」というトートロジー(同語反復)が現れる。
トートロジーは自己目的である。
しかしあるものがただあるものであるとき、人はそれを認識すること(像を見ること)ができない。
認識は見えるけれど見えないもの(非主題的に見ているもの、的=投影面=額縁)に目がけることを不可欠の契機とする。
したがって、あるものは人の目の前にあってただあるものとしてあることができない。
好むと否とに関わらず人は必ずそれを「すでにそうなされたもの」として感得する。
それを何かしらのものとして感得するときは必ず「あるようにすでにそうなしているもの」を定めている。
「あるようにすでにそうなしているもの」が隔てる。
意味とは物自体に意味のないことを隠す覆いに他ならない。
意味が隔たれているのではなく、意味が隔てているのである。
だから隔てられてあること=疎外が人間の常態であるのは彼がそれをただあるものとしてではなく何かしらのものとして見るからである。
配置された状況、意味的に組織された局面、歪曲された投影像だけがぼくを前に進める。
というのは、そもそもどちらが前でどちらが後ろかということがすでにして価値=意味=像だろう。
ぼくは前に進もうとするが、しかしぼくを進めるヴィークルはまた同時にきみを傷つける。
隔たりを解消しようとすることは即ちきみをある特殊な価値体系の下に従えることである。
ただし、服従させること、飼い馴らすことがいつも悪いというのではない。
よき人々によるよき物語へのよき服従であるならばそれはよいことだろう。
しかし、最もよき者たちは戻らなかった。
彼らを想えば、ぼくは適さない。
今、絶対の物語も、絶対の罪も、したがって絶対の贖いも失われている。
ここできみのためにぼくができることは何もなく、ただ何もしないことだけだ。
何もしないことだけが贖いである。
よさを巡っては、ぼくは黙ってここを立ち去るほかないのであって、残ることはすでにしてよさの放棄である。
ぼくはこれを如何にしても正当化することができない。
ぼくはぼくが好きな人に対してきらいなことをしないようなぼくが好きだったのであって、ぼくが好きな人に対してぼくがきらうようなことをするぼくを好きになることはむつかしい。
どんなくだらない神が許しても、ぼくは許さない。
直ちに立ち去るべきであるところで、ぼくには残ることそのものの負債について罪滅ぼしをする責務がある。
それを忘れない限りでという留保のもとに、ぼくは自らに今しばらくの滞在を認める。
これは欺瞞であり敗北であり裏切りである。
絶対に忘れるな、絶対に安住するな。
これがぼくの出発点である。
ではさらにどのようにしてあるべきか。
それはよき者たちに代わって、彼らの不在を補うことによって、と答えられる。
ぼくが彼らの代わりに、彼らの不在を補って、状況に介入するエージェント(代理人=触媒)である。
本来ふさわしくないぼくが彼らの代わりにここにあること、それをぼくは倫理と呼ぶ。
ぼくは彼らの名の下に、部分的に、辛うじて、ささやかなよきことは可能であることを信じる。
故なき信の「いわしの頭」がただぼくの慰めである。
意味の大地=目的の王国にあって、ぼくはもう何者としても認められえない。
何者としても認められることなく、よき星々は遠く、憩いもありえないが、しかしなおかつぼくは凡庸と稚拙の日々を生きていくだろう。
時折、もしきみがここにいてくれたならと振り返りながらも。