まどろむような | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

あ、どもども。

なんも考えてないです。

無心です。

無心こうげき好きだったけど原理的には不可能だよね。

「無心」ってのは仮構的な目がける的だ。

そこへと向う、そこへ向けて投じられるところの「それ」。

目がける的は実体しない。実体しないけれども、かくこうあるこのこれを相手取るに際しては象徴構造としてそう仮定するほかないところの現象の条件である。

わかりにくいよね。うん。

なぜわかりにくいのかというと日本語がおかしいからだ。

じゃ、なんで日本語がおかしいのか。

普通語られないこと、語っても仕方ないようであるしまた語ることが困難、いやたぶん無理っぽいようなものを語ろうとしているからだ。

「えーと、ほら、わかるっしょ、そういうことってあるじゃん、そうそう、「それ」、「それ」」

で、さらにこの「ほら、わかるっしょ」って感覚が要はレスペクトってやつだよね。

なんかこないだ「べつにきみに多くを求めない」って書いてたけどあれはもちろん嘘ですよね。

で、なんでああいうふうに書くのかって言うと、あのー、ぼくは意味性への抵抗ということを強調しているからなんです。

どこに重心を置くのかってことだと思います。

えっとね、んー、あ、そうそう。

たぶんカント的な普遍性への飢えがベースにある。

頼むからほっといてくれ、と思っている。

決してただ手段としてのみ用いることのないようにせよってことですよね。

意味づけって押し付けです。

ぼくは意味=価値に鼻が利く方だと思うんだけど、そうすると各人(他者)のロールをかってに置いていくってことは結局特殊な物語、神の光、ピュイサンス(神からの距離(隔たり)に基づく階位性)のもとに従えようとする態度なのであって、ぼくにはそれは選ぶことができない。

でもね、こうやってずーっと考えていくと、これじゃうまく行かないことがわかってくる。

罪が失効し、他方で贖いも失効し、でも、それでもまあいいのかもしれない。

というかいいとかわるいとか、そういう意味性の届かないところにいる(善悪の彼岸)。

だから否定が出来ないはずです。

いや、むしろそうした「なんでもなさ」だけが肯定である。

それはその通りなんだけど、自我/他我の二項性が回帰し来る。

人間がそれをやっても沈黙という雄弁に回収されちゃうんですよね。

現にバタイユは恍惚の権威を捨てることが出来ない。

ニーチェも最後泣いたでしょう?笑わないといけない。

ドゥルーズも自死を「選んだ」し、ウィトゲンシュタインもワンダフルライフということを「言う」わけです。

でもぼくはそのほうが好きだな。

なぜか、ってことを答えられない。

これは敗北です。でも、ここには誤読しかない。

だから病識があればそれでいいんじゃないかな。

あれ、脱線しまくってますね。

えーと、戻っていって…。

カント。

村上春樹の初期作品はカントの影響が色濃いですよね。

村上作品の主人公の態度が好きだっていうファンは多いと思うんだけど、あれはカントだよね。

「僕」が「頼むからほっといてくれ、僕はただこづきまわされたくないだけなんだ。結局のところ、問題がどこまで膨らんでいったとしても僕は僕が決めたようにやるだけだよ」っていうとき、こうした積極的自由はカント由来です。

「ほっといてくれ」を消極的自由、「自分で決めたようにやる」ことを積極的自由といいます。

ちなみに、じぶんでこういうふうにすると決めていること、がマクシム(格率)ですね。

普遍性への飢えもある。「みんな同じさ」ってさ。

でも、鼠は反発する。

それは一般論だろう。そううまくいかないよ。

鼠は身銭を切って主張する。

「俺は俺の弱さが好きだ。夏の光やセミの鳴き声や、君と飲むビールや…、わからないよ」

いや、わかるよ、そういうことってあるよ。

目がける的はもうない。

というか、はじめからない。

目がける的を立てようとすることがニヒリズムだった。

だから人間にとっては疎外が常態であることがわかったのだった。

たしかに、あんまりうまくいかないみたいだ。でも、ぼくはきみのことが好きだよ。

それでいいんじゃないかな。

これは夢だ。ろくでもない夢だろう。

でもここには暇つぶしの友だちがいる。偽の愛がある。皮相しかない。

それでいいんだよ。


うまくいく、ということは目的=テロスに基づいている。

いま、目がける的はもうないからうまくいかないんだ。

なぜ的がなくなったのかというと、的を次から次に否定しさる運動があるからだ。

「よりよい世界」を求める…なんていうんだろう。

資本的運動?

資本的運動を無限に引き伸ばすとテロスは消滅する。

資本的運動は線的だよね。

あれ、じゃあテロスって実は円運動なのかな?

ここ肝だね。考えてみる。

また戻る。リーダビリティーはレスペクトだ。

それから、わかってほしい気持ちと、わかってほしくない気持ちとのせめぎあいがありますよね。

通念と反して好きだっていうのは「わからない」ってことできらいだってことは「わかってる」ってことじゃないかと考えてみる。

結婚は人生の墓場だというとき、そこには倦怠が結婚の常道だというクールでリアルな判断が伏在している。

甘いな。人間においては「知れば知るほどよくわからない」という事態がありうる。

愛されモテファッションは既知への還元ではなくむしろわからなさへと向うのである。

無心か。純粋と混濁の対立項が重要です。

自然=無意識=無垢=論理=形而上学=イデア=超越論=…ってあれ、無意識は論理とは対応しないような。

テロスを次から次に否定し去る運動。

マミちゃん先輩もぐもぐ…。

あの魔女のデザインいいですよね。びっくり箱のピエロみたいな感じ。

話は飛んでハイヒール。

ハイヒールの目的って背を高く見せる為でも踏む為でもない。

ぼくは歩きにくいことそのものが目的か、「音」じゃないかと思ってたんだけど、ちがうみたい。

もともとはたぶん足を小さく見せる為にある。

纏足の習慣もそうだけど、足の小ささに魅力を感じるのはどこからくるか。

赤ちゃんに触れたとき、人が赤ちゃんの赤ちゃんらしさに驚くのはとくに手足の小ささではないかと思います。

「うわ、あしちっちゃい!」ってよく言ってません?

あ、じゃあ純粋性を求めているのかな。

赤ちゃんの足の小ささという純粋性、無垢さを纏足のような人工的、反自然的な手段によって押し留めようとすること。人間的ですね。

って、ウィキペディア引いたら背を高く見せる為って書いてあるね…。

背の高さだと、これは視線=権力をめぐる闘争ですね。

でもね、やっぱり上目遣いのほうがぜったい効きますって。

主体=サブジェクトって服従することです。

「面従腹背」のほうがより相手をドミナントに飼いならすことができるはずです。

はーい、ネタ切れ。

現在性-永遠性と現行性-永続性を考える。

前者がたぶん純粋、後者が混濁に対応する。

あ、あと代補と触媒を架橋する論理を見つける。

代補とは「あるものを否定し、ないものを説明する」もので(たぶん)、原状況を二重に隠蔽する。

そしてそれだけがパスなんだ、ってことになるんじゃないかな、たぶん。

もういっこあった。

「ドーナッツはその穴に帰結するか」

ねじりドーナッツはリングじゃないものね。穴に解消できないとは思うけど。

本質が虚であるもの、それが代補だよね。たぶん。


うまくいくといいね!