福音としての「余剰の傷」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ぼくはこの文章を他でもないきみに宛てて書いている。

ぼくはきみのことをろくに知らない。

ぼくはきみのことを大方知っているつもりでいるかもしれない。

でも結局その認識は誤りなのであって、いずれ裏切られるだろう。

しかしまた、そうであるがゆえに何にせよぼくはきみに宛てて書くほかないことも確かだろう。

ぼくはきみのことを友だちだと思っている。

いや、「本当は寒々しい風が吹きすさんでるだけ」なのだとしてもそれで一向に構わない。

ぼくはきみに多くを求めない。

きみはこの文章を読んでくれるかもしれないし、読んでくれないかもしれない。

しかし「きみが読んでくれるかもしれない」という仮定(うなぎくんなるもの)の下にはじめて辛うじて何がしかのことを語りうるのである。


分析は観察に始まる。

まず原状況からはじめよう。

「待ち人はなかなか来ない」「探し物はなかなか見つからない」

ぼくは苦しんでいる。

ここから考えよう。

ぼくたちはしばしばことの順逆を取り違える。

「果たして待ち人は来るか」「果たして探し物は見つかるか」

ここでこうした問いを立てることは誤りである。

「取らぬ狸の皮算用」とはまだ手に入れていないものを手に入れることができると思いなすこと、蓋然的なものを必然的なものと勘違いすることである。

一般に未来は未定である。

なぜならばそれは字義通り未だ来たらざるものであり、どのように来るかわからないし、そもそもそれ以前にそうしたとき=枠組みそれ自体が生起し来るかもしれないし来ないかもしれないのである。

原理的にはある出来事が可能か否かということは成されたか否かによって事後において回顧することを通してしか与えられないのである。

以上の検討を経て、おおむね「可能性」という観点は誤りであるということがわかる。

通俗的な可能性なるものはすべて迷信に基づく誤謬に過ぎない。


しかし他方でぼくは待ち続け探し続けている。

ぼくは迷信に惑わされているのだろうか。

半分はその通りでありもう半分はそうではない。

今、大きな局面において信仰=物語が衰退している。

ぼくもまたそうした趨勢から自由ではない。

何であれ人が努力するときそこには隠れた前段として「報い=反応=シーニュ」についての信がある。

「私が贈ったものは必ず私に回帰する」

この命題は人間学的に真である。

贈ったものが回帰するといわれているところには円環状の世界モデルが採用されている。

神話論理(人間学的原物語)の大地は円い。

世界が直線的な構造をとっているのであれば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」、贈ったものは戻らない。

失われたものは回復されない。

これは恐ろしい事態である。

直線性の下に努力の意義は疑わしいし、倫理は失効するだろう。

というのは倫理とは分かち合うことについても、普遍性についても、許すことについても、すべて相互性相同性に基づいているからである。

しかし、ぼくが求めたものは、そうした「意味の大地の果てるところ」にある。

ぼくは意味性、人間性、善性が取りこぼしたものに深くコミットしてしまったのである。

ぼくは生き残ってしまったのだ。

そうした相においてぼくは深く損なわれていると言ってよいだろう。

どんな問い方にあってもそれは有用な傷ではない、疾病利得に与ることはできないのである。

それは単に悪である。

意味を停止し構造を解体し倫理を否定し人間を憎むだけだ。

それは無意味で無用で流動的で醜く卑しく弱い。

そういう傷をぼくは抱えている。

それは決して新しい価値を立てないからニヒリズムではない。


では、そういう傷があって(それは結局はどうでもいいことだ)、それでぼくはどうすべきなのか。

真に傷に向き合い受け入れるには待つべきではないし探すべきではないのではないか。

なぜぼくは待ち、探すのか。

ぼくが傷つこうが傷つかなかろうがそれはどうでもよい。

問題はその傷なるものが両義的である点にある。

傷はぼくが傷ついたこと、傷つけられたことであるのと共に傷つけたこと、傷つけさせられたことである。

ぼくは傷つけたこと、傷つけさせられたことを気に病むべきだろうか。

意味を逃れていく傷のむつかしさはここにある。

それは意味の大地が取りこぼしたものであるから神の光=物語に位置づけることができない。

つまり、全ては許されているのである。

そこでは倫理が失効しているから罪も失効している。

ぼくは気に病む必要がない、気に病むべき内的動機を持たない。

ぼくが傷つこうがどうでもよいことであるのと同様に傷つけようがどうでもよいのである。

一応指摘しておくとこれはエゴではない。

人間は物語に服従することで主体となるがここで物語は立てられないからである。


しかし尚もぼくは気に病んでいる。ぼくは待ち、探している。

なぜだろう。

注目すべきはぼくが先に「傷つけたこと」を「傷つけさせられたこと」と並列に置いていることだろう。

ここではじめに退けた「可能性」を再検討してみよう。

ぼくは可能性を受動性と考える。

ここに、なしうることはなしうるようならしめられてあることである(ただそこにあるものはすでにそうなされたものである)。

シーニュはエクリチュールによる汚染、意味論理の抑圧がなければありえない。

したがって傷はシーニュではない。

しかしかといってそこで非-主体としての各局所性(ぼく)は能動的自由を有しているわけでもない。

つまり、自然的自由もまたけっこう不自由なのである。

自然に還っても世の中はやっぱり辛いのだ。

いま、傷=フォルスの受動的性質を潜勢性と呼ぼう。

ぼくは未だに潜勢性によって気に病まされている。

ぼくはたぶんその子のことが好きだったからである。


ではいかにして傷は癒されうるのか。

いかにして自己自身による閉塞は打ち破られるのか(無意味なものへのコミットメントは他に選びようがなかったとはいえ一応選択的なものである)。

鍵のかかった部屋、いや、鍵をかけている部屋からはどうやったら出られるのか。

ぼくはどうやったらきみを救い、また救われることができるのか。

ぼくの直観が教えるのは「出口はない」という認識だけが出口であるということだ。

「傷」という構築的な「ないもの」をこそ新しい倫理の核とすべきである。

直線的世界を無理やり円環状にするにはあたかも円いかのようにふるまうことである。

一気に一回に全体を変えようとしても何も変らない。

仮面を被って光の中に進み出るしかない、ぼくはまだ人間を降りない。

傷の痛みは人間の限界に留まるべきであるという啓示である。

義でも自死でもないものは故なき信であると告げている。

それはきっとぼくを生かす福音なのだろう。