徒歩7分 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

きょうもげんきだおにぎりうまーい!

今日の帰り道、橋を渡っているときにぼくの足元をなにか黒い影が横切ったのだ…。

なんだこの文体。

たぶん猫だろうと思うけれどやや大きかった。

近所に小さいながらも山があってお寺と古い森が残っている。

このあたりにはまだタヌキが残っているのである!!!

ぼくもみたことあるよ。

タヌキだね。


ふたつの「未来・過去」を考える。

遠い未来からみると過去である近い未来という「未来・過去」と未来に向けて語られる過去という「未来・過去」。

前者が消極的自由(人の邪魔されない、ほっといてもらえる自由)、積極的自由(たぶん…じゆうに選べるってことそれ自体だとおもう、オールマイティ)に対応する。

なぜかって、忘れた。

えーとあとトローリー問題の変奏。


きみは路面電車の運転手。線路の先に人(A)がいる。

電車の接近に気づいていない。しかもブレーキが壊れる。

危ない。困った。

と、前方に引き込み路線。

しかし引込み線のほうにも人(B)がいる。

どうするか。

どちらかを犠牲としなければならない。

Aが知っている人、特に好きな人、Bが知らない人である場合。

ぼくは引込み線にいるBを犠牲にすべきであると思うし、そうふるまう。

善悪はわからないしどちらを選んでも悔やむだろうけれども、そうする。

これはまだ簡単である。

次。

Bが自分がひそかに好意をもっている人、Aがその片思いの相手の、好きな人の場合。

Bが「Aが死ぬくらいならあたしが死ぬわ」と思っている場合、ぼくは引込み線のBを犠牲にすべきではないかと思う。

ここでぼくがBを殺すべきではないのか。

今日現在のぼくの(つたないものではあるけど)思想総体の限界がここにある。

よくわからんけれども、ぼくの脳みそというブラックボックスに条件を全部放り込むとそういう結果を出力する。


もうひとつ、話は飛んで、「中枢なき法はあるか」

これはそのまま読むとそのまま矛盾している表現だ。

中枢的な権力装置を「法的なもの」といってるわけだし。

法=一般意思的なもの、中心的構造的力(ピュイサンス)って「人間」のあるところにはいつもある。

というかそういう仮構的なもののまわりをまわっているものを人間と呼んでいる。

レヴィ・ストロースが看破したとおり近親相姦のタブーは親族の再生産のためにある。

女性は交換しなければならない(語弊のある表現だが)。

そのとき、交換していく人間関係の総体、神話論理の大地、というものは一般意思的なものだと思う。

類は公性なのか、って疑問がある。

家族って法だよね。

類に限りなく近いような気がするなあ。