脱構築ってなんなの?という質問を受ける。
いや、受けてない。勝手に解説する。
脱構築という術語そのものはデリダさんのものだ。
うん。ぼくもデリダよくわかってない。
じゃあ使えないのかというと、うーん実践的な水準においては使っているような気がしないでもない。
「論語読みの論語知らず」ってあるし「岡目八目」ってある。
デリダ知らずによる脱構築解説も…うーん。
やってみよう。
脱構築というものはいってみれば合気道みたいなものだ。
相手の力を使って相手を投げる。
ベクトルを衝突させるのではなく流れに沿って配列することによってフリクションによる力の消耗を最低限に抑えることを目指す。
頭のいい人、力の強い人を向うに回す。
真っ向勝負を挑んでも力の無駄である。
そこでは相手の優秀さであり強力さというものはある性質についての私のそれと相手のそれとの差異に基づいている。
価値は自体しない。
背が高いという美質はただそのままで存在するわけではない。
身長200センチメートルの人間は身長150センチメートルの人間と身長について比べると50センチメートル分差異をもち、身長は高い方がよいという価値判断(ものさし)のもとで「優秀」である。
まず身長150センチメートルの人間が身長200センチメートルの人間に(何らかの意味で)勝つためには両者のあいだに横たわる差異をそのままに価値判断を変更することが考えられる。
「身長は低い方がよい」という価値判断のもとに身長150センチメートルの人間は身長200センチメートルの人間に身長について比べると50センチメートル分「優秀」である。
これはニーチェにおける「奴隷道徳」という概念に当たる。
そのまま酸っぱいブドウと同じで、身長の高さによって勝てないから価値転倒を試みるのである。
脱構築は価値転倒ではない。
ここでは脱構築は「身長が高いことはよい」という価値判断にまずは同意するのである。
じゃあどうするのか。
フェアイズファール、ファールイズフェア。
よいはわるい、わるいはよい。
よいはよいままに、「だから」わるい。
わるいものはわるいままに、「だから」よい。
そういうことがある。
「人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ。それがギリシャ悲劇の根本にある世界観だ。そしてその悲劇性は――アリストテレスが定義していることだけれど――皮肉なことに当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる」
(村上春樹、『海辺のカフカ(上)』、新潮文庫、2005年第5刷、421頁)
大島さんは格好いいね。
美点は悲劇を、劣点は喜劇をもたらすのである。
帯は帯であるから帯のためによい、しかしだから襷としてはわるい、襷にするには長い。
襷は襷であるから帯のためにはわるい、しかしだから襷としてはよい、襷にするには適する。
襷は襷であるから襷のためによい、しかしだから帯としてはわるい、帯にするには短い。
帯は帯であるから襷の為にはわるい、しかしだから帯としてはよい、帯にするには適する。
…ぜえぜえ。
あらゆる考えは期間限定、地域限定の「仮説」である。
だから適用性をめぐって、当該の意見の美点を梃子にひっくり返される瞬間がある。
それを脱構築という。たぶん。