うんうん唸ってもんどりうっているとおかしなアイディアが湧いてきた。
「弁証法と中庸は矛盾しない」
これはどうだろう。
たしかに、かなり苦しい言い分だと思う。
でもこれしかないんじゃないだろうか。
端的に近代以後というものは「人間的・個人的生=大人=(地位や財貨や情報や女や土地や威信なんかを)持てるもの」の無根拠さを暴き「ありのままの生=子ども=私有せざるノマド」に留まろうという態度のことだ。
ここで弁証法は斥けられるはずだ。
弁証法と中庸とはどう違うのか。
どちらもともに「極端なもの」をどう処するかという技法のことであるけれども、前者は「ある極端なものにべつの極端なものを対置し衝突させることでバランスをとり飼いならすこと」を目指して能動的操作を試み、後者は「対立するふたつの極端なものの双方を礼(遠ざけの術)をとって宙吊りにしいずれにも与しない」という状態をただ生きることをいう。
言い換えれば前者は「あれもこれも」、後者は「あれでもないこれでもない」ということだ。
そういうわけで弁証法と中庸とは「イエスかつイエス」と「ノーかつノー」ということによって明らかに厳しく対立している。
困ったね。
たぶん抽象的に過ぎてことのスケールが伝わらないと思うので(まるでぼくの手に余る途方もないスケールなのだよ)もう少しべつの言い方をしよう。
弁証法は「極端なものの飼いならし」のことだが、それを「飼いならす人」を立てるという点でヘーゲルの自己意識やフッサールの超越論的主観性と結びついている。
「飼いならす人=西欧的主体=意識=理性」というのは結局は神のことである。
それは完成されなければいけないしつじつまがあい整合しないといけないし一貫しないといけないし単線的でなければならないし正しく善く美しく都合よくないといけないのだ。
一神教の「意味の光」は結局ご都合主義に他ならない。
ご都合主義は字義の通り都合こそいいものの「都合の悪いもの」を相手取ることが出来ない。
ここが限界である。
じゃ、中庸は?
中庸は孔子やアリストテレスが説いているけれども歴史的に、実践的生の水準において格闘したのはやはり仏教ではないだろうか。
厳密に言うとアリストテレスの「メソテース」と仏教教義の一つである「中道」は孔子の中庸概念と一致しない。
中庸には二つの要素が含まれている。
中とは極端でないこと、庸は凡庸の庸と同じもので、かわらないこと、平常で平凡で平易であることをいう。
メソテースと中道はそのうち極端でないことの意味しかもたない。
でも仏教の場合はちょっと事情が違う。
仏教の目的はなんだろうか。
目的というとちょっと語弊があるが、「悟りを得ること」だ。
しかし世の人には悟りを何か特別なもの、絶対的な貴重で限られた徳のある人間にしか得られないような自分とは無縁なものだと考えている向きが多いのではないだろうか。
それはちがう。
むしろそうした絶対の立場がありえないことをこそゴータマ・シッダールタは「悟った」のである。
仏教が目的とする(「絶対の救済」という「目がける的」なるものが存在しないという意味であるところの)「涅槃寂静」はそうしたゴータマ・シッダールタの認識的転回をあらわすのである。
これを押し進めた「一切衆生悉有仏性=庸」を先の中道に併せれば立派な「中庸」となるだろう。
さて、では中庸によって人間は生きることが出来るだろうか?
ノー、ぼくは狭義の人間は中庸によっては生きることが出来ないと思う(ここがこの論のミソである)。
現に仏陀は人間ではないのではないか?
正しく善く美しく、同時に愚かしく悪しく醜い人間。
思惟し思惟し得ない人間、無限で有限な人間、強力で非力な人間、超越論的で経験的な人間、意識的で無意識的な人間、能動的で受動的な人間、主体的で従属的な人間、生きつつ死んでいる人間、正常で狂っている人間。
そうした二重的な人間を生かすものこそがなによりも欲望の原理としての弁証法ではないのか。
(ちなみに疎外は弁証法によっては解決されない。ことは逆で、むしろ弁証法が疎外を生んでいるのである)
むしろ今、(狭義の)人間は危機に瀕している。
波が足元を濡らしつつある。
ぼくは「告朔の餼羊」としての「人間」を惜しく思う。
そこで中庸の一端に「弁証法的人間」を、もう一端に「流体的未分節的生」を置く。
ここにぼくは「中庸と弁証法は矛盾しつつ矛盾しない」というぎりぎりの解決を見る。
なぜ矛盾しつつ矛盾しないのか。
最終的にその矛盾を解消する為に、それが意味することの取り消しを求める否定の身振りによって自ら「罪ほろぼし」をするからである。矛盾しつつ矛盾しないことは時間の経過を考慮に入れることで解消される。
どこにもないものをここに展開するためには鏡によって対を構築すればよいということをぼくはルイス・キャロルとジャック・ラカンとフランツ・カフカとアラン・ミルンとポール・オースターと村上春樹に教わった。
事態は「0→1→2」とは展開しない。そうではなく「0→2→1」と進むのである。
あの屋敷への道はここにある。