あけましておめでとうございます。
昨年はお世話になりました。今年もお世話になります。
年賀の挨拶はこれでほぼ全部という非礼を許してね。
昨年は素晴らしい一年だったね。
今年もうまくいくといいね。
よし、これで挨拶と予祝が済んだ。
あとはいつもどおりブレイコーである。
「たぶん月刊話半分」がほぼ日のパロディであることに気がついて歩きながらニヤニヤする。音の数まで合っているではないか!
でも意外と気づいてない人多いんじゃないかな。
散文のいいところはまさにそのまま散らかっている点にあるのであって、いきなり話が飛んでもそれでいいのだ。
ぼくはきのこの山が好きだ。今年ももちろんきのこの山を支持したい。
みなさんおやつはやっぱりきのこの山です。
思いついたことを全部かく。
海月。うん。買う買う。カウカウ。
あ、そうそう。「鏡」。
あれ考えるとどうして羊男が必要だったのかがわかるのだ。
鼠は羊男の「鏡に映らなかった像」を媒介して「僕」の前に表れることが出来たのだ。
これは加藤典洋さんも指摘していなかったとおもう。
羊男は異界のものではない。たぶん。
ややヘンでもまだ現世の人である。
だから本来羊男は鏡に映らなければならないのである。
でも映っていない。どっかにいってしまったのだ。
影をなくした男を想起させるね。
影というと「かげふみ」というイメージを以前書いた。
これは無意味さ、無垢さ、子どもの遊びの他愛なさをあらわしたつもりだったんだけど今思うとこれはなかなかすぐれた選択だったんじゃないかとおもう(自分で言うのもなんだけど)。
というのは「自分のかげを追っていつまでもおいつかない」というパラドクサルな事態こそはまさに「疎外」に他ならない。疎外とノスタルジアというのはひとつことの二側面である。
かげふみ=疎外はおぼえておいていいとおもうよん。
「非精選現代文」、きみおもしろい。
もうそんなもんかなあタイトルがおもいつかない
うーん…きょうは土曜日。
逆つづりでいいか。
kyouhadoyoubi
ibuoyodahuoyk
イブおよだふおyk
おもしろくない。
うん。
えーと。
かえるくんにはきんたまがないけれどうなぎにはあるのだ。
知ってた?
牧人司祭型権力。羊。
動物ばっかりでてくる。
犬の漫才師、鼠、羊男、かえるくん、うなぎ。
いわし。
よし、やはり漱石先生だな。うん。
タイトルは思いつかなかった。