海苔と高菜とタラコの三位一体 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

タラコスパはすごい。

うん、すごいよ。これは人類の叡智だよね。うん。

周知の通り、ぼくはまるでこりない人間である。

うん。まあね。おい、肩の力の抜き方を忘れてしまったよ。ん、え?えへへ。おいエンジンかからない。寒いからね。あーっと寒いですね。それはもう年の瀬ですからね。そりゃまあ寒いです。寒いですよねえ。寒気が流れ込んでてね。うん、北風が厳しいですよ。こういう日は鍋なんていいですよね。あたたかいものが恋しいよね。それでね、うちにはコタツがないからね、床暖房ならあるんだけど。足元が冷えるよね。足風呂なんて憧れちゃうけどこれも手間がかかるからね。ああ一度やってみたいなあなんていつもいうんだけど、結局やりませんね。エンジンかからない。もういいか。うん。

M‐1グランプリ2010ね、うん、まあ観ましたよ。まあぼくも懲りませんよ。みんな知ってるでしょ。ねえ。あのーこういうときの言い訳としてね、ストックフレーズがあるんだけども。一年というのは365日ちょいありますよね。うん、で、どの一日もスカラーとしては等価であるはずなんだよ。本来ね。でもそこに人間が意味づけをするでしょ、この日は祝日、この日はプリッツの日、この日はクリスマス。クリスマスね。うん、まあそれはちょっと後で書くとして、どの日も物理量としては等価なのに意味づけの水準で価値が変ってくる。そうであるならね、逆にその意味というものはイデアであるんであって、まなざす人間次第で書き換え可能なはずなんだよ。そうでしょ。それが合理主義いうものですよね。だから年の瀬の忙しい日も時間がなくて急いでいる日も同じで、ただの日の鷹揚とした態度と同じようにふるまうことは可能であるはずなんだ。そういうわけでぼくは懲りないんですね。はい、言い訳。

なんだよまったく。あのーそう。クリスマスね。終っちゃったけどね。旬とかぼく気にしませんから。これもスカラー等価の原則に照らせばべつにクリスマスシーズンになってからやっと恋人のいないことを思い出してリア充を呪ってもね、なにいってんのよ。そうならね、一年中悔しさに枕をぬらすべきでしょう。それが思い出したようにぎゃーぎゃーいいやがって。広告業界に踊らされてるのはてめえの方だろうが。ばーか。聖夜じゃなくて性夜だろうなんて揶揄もありますけどね。でもあのーそれは理に適ってるんですよね。まず古来祭りというのは根源的に「そういうもの」だしね。恋人のエロス的関係はそれだけだとまだ対他幻想だからね。セックスを介してそれが共同幻想へとシフトされる。目的が書き換えられる(ワンピース読んでる人はログポースが空島に引っ張られちゃうみたいな話)ってことが起きる。「まだ私がそれを知りたいとは知らないもの」っていうのは特にここで赤ちゃんでしょう?だからいいわけ。

それと、クリスマスはファンタジックなものであるはずなのにゲームやら指輪やら高価なプレゼントを要求するなよと思ったきみ。それは違うぜ。サンタクロースという人はそもそも市場の守護者だからね。最初のプレゼントはお金だったわけでしょ。だからクリスマスはもともと祭りじゃないわけよ。贈与性や蕩尽によってではなく交換性に基づいていたわけだからね。それがキリスト教に吸収される過程においてむしろ土俗的な祭りへと書き換えられていったわけだよね。人間というのはたくましいね。うん。

M‐1観たよ。結局ピースの発音ネタで一番笑ってしまった。すいません(表記できない)。

あのー。で、近代批判のぼくの答えは、「二重の被-超越」です。一応、強度が稚拙に、洗練が凡庸に対応してるんだけど、言葉選びが悪くて不自然だよね。普通稚拙⇔洗練だよね。すいません(だから表記できない)。天丼ネタって楽で手堅いよね。「凡庸と稚拙の此岸」は結構濃い記事ですから。するめみたいにかじかじしてくれたらええと思います。http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10747717197.html

あー、けほ。喉痛いなあ。お大事にぼくありがとうぼく