凡庸とはまっとうであることだろう。まっとうさとはディセントな態度であり、並であることだ。ディセンシーはマナーではない。マナーというのは特殊地理的、文脈依存的奇習である。
「あのさ、もうそういうのはいいんだよ。きみは野良猫にお行儀よくすることを求めないだろう。今とりあえず必要なことはみんなぶっちゃけて、とにかく我々が連帯なり対立なりするゲームの盤面を立ち上げること、同じ土俵に上がることだ」
ディセンシーはマナーとは違い誰にでも獲得することが出来る。いや、獲得というような傾向性さえも必要がない。ディセンシーとは、まず全てに先立ってあらゆる慣習が失効する闇の奥に放り込まれ、とにかくそこでありあわせのものでなんとかしようともがく中で誰しもが成し遂げてしまうできるはずのないことの謂いである。
きみの隣で赤ちゃんが泣きじゃくっている。きみ以外周りに大人は誰もいない。きみは赤ちゃんをあやそうとする。赤ちゃんに安心を与えて泣き止ませることは既知の、経験の中にその解を求めても見つからず、ただその場限りの自然の態度によってしかありえない。
ディセンシーは秩序性から最も遠い。秩序が果てる世界の周縁でしかしなおかつそこに交話の回路を立ち上げようとする潜勢力の発光である。そこでは最も遠いものが最も近しい。
しかしディセンシーは持続性を持たない一瞬の好運である。それはやがて打ち捨てられる梯子であり、きみがそれを伝って渡って行くことのできる、引き潮のたびに姿を変え現れてくる砂洲である。そして生々起滅する滞留性の総体は偉大なゼロである。ディセンシーは罪滅ぼしをしなければならない。
罪滅ぼし、すなわち否定する身振りは我々の前に腐敗として立ち現れる。腐敗はおぞましい沈黙であり遠さへの恍惚である。それは類に対するフェアネスである。類は今ない。類はここにない。類は反復である。循環である。永遠の時である。それは逸脱的で怪異で不均衡で過剰で無能で裸形で異質で混濁し葛藤し溶解し氾濫し愚弄し侵犯し破壊する限りない痙攣である。受け入れることも憐れむことも許すこともここにはない。その危機において廃墟において裂傷において、しかしきみは穏やかに微笑み静かに肯う。届かないということ、そのことにおいてきみはそれに触れている。決意と確信がぎりぎりのところできみを呼び止める。
「ぼくは・きみが・好きだ」
救済はこれ以外の形ではありえない。ね、きみ、そうだよね?