ここでは批評ということについて説明したい。
だが説明とは言っても、ぼくは批評のなんたるかについてほとんど何も知らないに等しい。
「そんな人間がいったい何を語ろうというのか」
そのとおりだ。
しかしなおかつ、ぼくは批評という言葉で指示される何かを、たまらなく必要としている。
いや、自分が必要としているのだということを確信している。
人間はときとして、まだ自分がそれを読みたいとは知らない本にめぐり合う。
自分の知らない分野、知らない出来事について記述された本を手に取ることがある。
なんのためだろうか。
なんのためでもあるまい。
まだそれを読んでいないということは、それがあなたには必要とされてこなかったことを意味している。
そうだね?
必要としていたのならあなたはその書をすでに読んでいるだろうから。
「その本はわたしには必要がない・しかしにもかかわらず・その本がわたしには必要だ」
これは不思議な事態だが、たしかにそういうことってこの世界には生じうるのだ。
まだ知らない現実がわたしをより本来的な土地へと導くだろうという確信が、ときにどうしようもなく人間の下には去来する。
ぼくはいまそういうことを問題としている。
ここで時は直線的には流れない。
「まだ」知らない現実によって「すでに」より本来的な土地へと導かれたわたし、という仮想的な視座においてその「確信」は与えられる。
このように複雑に入り組んだ構造をとるのである。
*
さて、批評とはなんだろうか。
正直に言って、ぼくは批評という言葉にポジティブな印象を抱かなかった。
みずから前線に立ち、「困難な原事実」に己の知的背筋と知的肺活量とによって立ち向う人間だけが公性を担いうる、なんてマッチョなことをぼくは考えていた。
いや、いた、というのは潔くないな。今も否定できないでいる。
「批評?自分は遠い安全圏から一方向的に石を投げるクズの間違いだろう」
たしかに、一面にはその通りかもしれない。
でも、反対に、前線なるものの中にほんとうに公性はあるのかよ?
「予め立てられた、状況から自由な零度の審級」なんて都合のいいものはどこにも存在しない。
なら「前線/安全圏」の二項対立だって自明視されていいものではないはずだ。
むしろ、世界は、「前線」の方が高い壁に囲まれているように思う。
スカスカのモラルというのは、そこからやってくるんじゃないか。
いまや前線は公性を失った。
もはや公的な前線はどこにも存在しないのだ。
ここが勘どころだ。
全体的な公性の基盤は沈下し、島宇宙的ゲーテッド・コミュニティが林立している。
そこから「人それぞれ」と「自分さがし」というイデオロギーが湧いてきているのだ。
ゲートを越えて渡っていくことができるものは金だけだということになっている。
正しさとは金のことであり、善さとは金のことであり、美しさとは金のことである。
なに、そんなことはないって?
「ほんとうに大切なものはお金では買えない」
なるほど。
では、君はその本当に大切なもの以外については偽の大切さだと思っているのだね。
じゃあ捨ててみてくれよ。
…今はできない、なるほど。
ぼくはそれを「できる」とは言わない。
あなたはほんとうに大切なもののなんたるかについて知らない。
できるというのは、いまここでできるということだ。
そして、いまここですることができるということを「知っている」というのだ。
ぼくはあなたのような一見「まとも」で「良心的」で「社会的な」立場をして「スカスカのモラル」と呼んでいる。
そして、問題は、上のように隠れた「偽のモラル」である「スカスカのモラル」を抉り出し、糾弾し鉄拳を下すのだという「絶対に否定できない正しさ」を掲げる立場をどう処するかということだ。
上のような議論を辿っても、外には出ることができない。
ではかく言うあなたはなぜその偽のモラルを捨てることができないのか。
知っているというのはいまここですることができることをいうのだ。
あなたは本当のモラルを知らない。
ぼくはあなたのような一見「まとも」で「良心的」で「社会的な」立場をして「スカスカのモラル」と呼んでいる。
このようなうんざりするような反復運動をぼくは「近代」と呼んだ。
『近代とはなんだろうか』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10713306339.html
どうしたらいいと思う?
ぼくは「中庸」という知的態度を知っている。
中庸は孔子やアリストテレスが説いている概念であるが、ぼくはこのように理解している。
「世の中には「悪い性質」と「よい性質」が対になっている。「悪い性質」を捨て「よい性質」をとるべきだ」という主張にも、
「ちょっと待て。何をして「よい」だの「悪い」だの決めるんだい?本当に「よい」とか「悪い」なんて存在しない。セックスとドラッグとバイオレンスだけが人生だ。レディメードな軽くて薄くて楽しいものをその場限りで消費するのがよく生きるコツさ」という主張にも与しない。
起点も終点ももたず、寄りかかるべき価値軸ももたず、己の呼吸に重心をおいて自制を常とすること。
でもなんだか面白くなさそうじゃない?
そのとおり。
そこでぼくは「批評」を求めたのさ。
ぼくには、ぼくよりも優れた好奇心が宿っている。
ぼくはのうのうと生きてきた。
ろくでもない人間だし、ぼくの人生なんてかたつむりのフンほどの値打ちもない。
一般論では「誰の人生にも価値なんてない」のかもしれないけどね。
でも、やっぱり、そうさ。
ぼくは、自責と後悔ということなら、同じ年月を生きた誰よりも考えたよ。
ぼくは君に与えることの出来るものなんて、何ひとつ持ち合わせていない。
ぼくは君のことが好きだよ。
でも、君にしてやれることなんてなんにもない。
むしろぼくがきみから遠ざかることくらいさ。
ぼくには何もない。
金もない、地位もない、名誉もない、セックス・アピールもない。
みんな総武線の車内に置き忘れてきたんだよ。
しかし、ぼくは誰よりも、君にしか与えることのできないものを必要としている。
いいかい、十年代に風穴をぶち開けるヒントは、ここにある。
価値があって贈与があるんじゃない。贈与があって価値があるんだ。
転回とは変らないことであり、アンチ・モノトナスとはゼロのことであり、風穴とは「ない」ことだ。
重くて重くて仕方のない荷物の正体は、「空」であることだ。
ぼくが君に与えることのできるものは存在しないし、金で買えないかくされた本当の価値なんて存在しない。
「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」
しいて言えば、批評とは愛と敬意と好奇心のことだよ。