いや、ぼくも。
めもめも。
何故書く?
「現実性の基盤」をどこに見るかってことがある。
それによってふるまいは変わる。
なんでこいつはこんなことをするんだろうと思ったときに、その人が「いや、「これ」が現実性の基盤だからですよ」と答えたとき、あるいはあなたにはまだそれが尚も理解できない可能性がある。
そうでしょ。
別のゲームを生きている可能性がある。
ぼくはしかしなおかつ「別のゲームに開かれている」というようなあわいに立つ知的態度を(部分的に)知っている。
その両義性、マージナリティ、煮え切らなさをぼくは「コウモリ」と呼んだ。
我ながら鋭い。えっへん。
窮鼠猫を噛む、とか念ずれば通ず、みたいなことはあるぜ。
ある種の、現実性の基盤として、次のようなことはあるかもしれない。
きみは人を探している。
たぶん、この店に寄ったんじゃないかな、とか、なんとなく思い当たるところがある。
尋ねてみるとメモが残されている。なにか、次の行き先を示すヒントだね。
そうした断片をかき集めていくこと。
しばしば、きみはついにその人には会えない。
しかし、きみははじめにきみが求めたものとは別のものを手に入れるだろう。
「がっしゃーん」と壁が崩れて、別の現実が侵犯してくる。
わたしにはそのルールが開示されていないからわからないけれども、たしかになにかしらの法則性、傾向性を背後に隠してそのときどきに適応的にふるまっているらしい。
ぼくはゲームの開始にすでに遅れてしまっている。
新しい現実の予示としての違和的な断片。