いや、ちょっと待てよ。
またぼくは間違ったんじゃないか。
ぼくはほんとになんにもわかっていない。
間違いに間違い、失敗ばっかり、失敗のカタログのようなもんだ。
そうなんだ…。
究極的には何を言うかということなんてどうでもいいのだとさえ言える。
「どう言うか」ってことだけが問題ではないか。
さっき、駅からの道で、悲しいくらい優しい気持ちになった。
何に対して?…何に対してだろう。
あるいは、それもまた嘘かもしれない。
だって「私は先ほど悲しいくらい優しい気持ちになったのです」という言葉は比較的マイナス査定されにくいだろうから、ぼくにとってそう主張することは特に心理的負荷がかからない。
言葉だけならいくらでも言えるだろう。
君だけを愛してるよ早く君に会いたいよ、うんぬん。
でもとりあえずここでは許してやりたい。この問題は一旦保留し、前に進もう。
(『こうもりくんの弁明』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10701453817.html )
ぼくはここでは書き忘れたけど、ぼくにとって一番必要なものはこの悲しいくらい優しい気持ちのほうじゃないだろうか。
懐疑も結構だけど…ぼくに必要なのは、みなさんへの愛と敬意だろう。
君が贈ったものは必ず君に回帰する。
呪詛と憎悪ではなく愛と幸福を歌え。
(『紙コップに冷たい水を注いで舐めるようにそれを飲むこと』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10682717614.html )
ぼくは、きんさまさんやちなさんやもたりけさんや、みなさんがいらっしゃらないとやっていけない。
「何故、ブログなんて書く?」
「何故、ビールなんて飲む?」
なぜブログなんて書くんだろう…。
自己顕示欲かな。
んー、でもさ、もしもここに自己顕示欲しかないとしたら、みんなこんなに読んでくれないと思う。
だって自己顕示欲しかない文章なんて胸糞悪いだけじゃない。
ということはそうじゃないものも、たぶん…あるんだと思う。
どうすればいいんだろう。ヒントをもらおう。
ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己改革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。
(村上春樹、『1973年のピンボール』、講談社文庫、2004年第1刷、30頁)
ピンボールをブログに置き換えて読む。
ブログの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。
エゴの拡大にではなく、縮小にある。
分析にではなく、包括にある…。
前の二つはその通りだと思う。
でも最後はちょっと引っかかるかも。
遡行的・分析的な思考はあってもいいんじゃないかな。
と、いうのは、ぼくがそれを得意だからではなくて、ぜんぜんできていないからなんだ。
ぼくは先の記事で、現状を説明するにあたって(仮構的だという留保はあるものの)「ゼロ地点の疚しさ」という単一の原因を指摘した。
たしかに、それで一応の整合性はとれるかもしれない。
でも、納得できるか?
現在の私の知的失調はすべて、原初の「ゼロ地点としての疚しさ」に由来する、ゆえに私にはハンドル不能だ。
ぼくたちはこうした態度をして「他責的な幼児の語法」すなわち「無責任」と呼んでいるんじゃなかったか?
現状はそれに先立つ無数の前件の複合的な効果であってもいいはずだ。
単一の原因に帰着させる定型的な語法の貧しさ、つまり、そう、モノトナス!
それで、人はどういうときに「もう黙って結構」といいたくなるか、と
言えば、展開が単調的に変化しているときだ。
モノトナス!
これがキーだ。
(『208209』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10691765900.html )
ぼくにはできないこと、知らないことがたくさんある。
だから教えて!お願い!
教えてくれてぼく自身が変化すれば、きっと、単調さを抜け出せるんじゃないかと思う。
あれ、とすると、包括なのかな、やっぱり。エンドはさ。
*
「言うべきでない言葉ってあるだろうか」って問いに答えておこう。
どうなんだろう。言うべきでない言葉ってあるかい?言ってしまってから後悔することって、本当にあるだろうか。
(『嘘と沈黙について』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10691061488.html )
ない。本当は言うべきでない言葉なんていうものは何ひとつ存在しない。
だが、だから、言うべきでない言葉というものはあるぜ。
このねじれを引き受けることがこうもり的知性というべきものだ。
正義や善についても同様。
*
閉域を解放しゆるやかに常識的な、穏当な思考に着地させることが目的であるならば、ぼくはさまざまな知を訪ねてみるべきだろう。
たとえば、ここでは仏教のフレームを導入しよう。
「見たくないから見ない、言っても聞かない、見ても言わない」、これは仏教では「無明」と呼ばれる。
無明とは、本質がわからない、わかろうとしないということだ。
もうひとつ、モノトナス。
ぼくはこの言葉を「固着」の延長に使っているけれど、こちらは「執着」に当たるだろう。
ぼくが突き当たる問題はみんなすでに昔の人が考えているんだな。
*
価値論は必ず、新しいモラルの創出に資する。
時代への、きみへの贈り物になると、ぼくは信ずる。
ぼくがカタギの道に戻るときにはこれがきっとささやかな手土産になるだろう。