伏姫 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ぼくは己にセンチネルの役割を割り当てた、と書いた。


ぼくは己にセンチネル(歩哨)の役割を与えていた。

なにか世界に異常が起こらないか、監視していたのである。

そうした意味で「自宅警備員」という揶揄は鋭いと思う。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10676280083.html


でもそれは一体何を見張るセンチネルだったんだろうか。


たしかにひとつにはその答えは「なにか世界に異常が起こら

ないか」ということになる。

でもこれはちょっと不正確だ。

一般に出来事というものは何かが自体的に静的に持続して

いることを言うのではない。

クマのプーさんは「何もしないをしているんだよ」という至言を

残したが、これが詩的に映るのはふつう「する」とか「起こる」と

いうことが、何かこれまでになかったような何かが新しく立ち現れて

くることだとぼくたちが考えているからだ。


つまり、センチネルは、変わらない日常の風景の中に異質なものを

こそ監視しなければならないはずだ。

出来事とは「遭遇」であり「相互作用」のことに他ならないのである。


だから、ぼくがほんとうに何がしかの意味でぼくの言う「センチネル」

なるものとして機能していたのだとすれば、

「世界」のほかに何かを見張っていたはずなのである。

それはなんなのか。

「君は一体何を見たのか」

「君はこうしてぐずぐずとあるいは怒りながらつまり何を言いたいのか」

そう問うのがあなたの、仕事である。


なぜか。

人間は自分に甘い。

見たくないものは見ない、見ても言わない、言っても聞かない。

「自己剔抉」だとか「トラウマの発見」だとか「告解」だとかいったものは

その場で新たに構築されたアドホックな「嘘」なのである。


だが、ここは少し扱いがむつかしいところで、

一方で、「事後的に決定され続ける過去」という順逆が転倒した時間感覚

こそが人間存在にとって根源的な状況なのである。


人間はこうした「根源的な取り違え=誤配」によって他の霊長類から

独立したのである。


戻ろう。


逆に言えば、ぼくが怒り狂ったのはその仕事を果たすべき「大人=他者」が

ここにはいないにもかかわらず、センチネルを降りてしまった自分の

脇の甘さに対してなのである。


ぼくが恥を覚え認識を改め謝罪すべきなのは、

感情を顕わにし(あら、さっそく「自己剔抉」の胡散臭さが。)挙措を失した

見苦しさについてではなく、雪かき仕事の重みに対しての侮りにこそ

なのだ。


だが、また、他者性の一点がぼくの自由を担保するのだということも

事実である。


ぼくは愛の言葉で呼びかけ協力を請うたが、この前段にも後段にも、

必ずしも問題があるわけではない。

二つを併置したことが問題なのだ。

それは意味性への短絡であり、考えうる限り最悪に下品な振る舞いである。

「痴態」と呼ぶべきはむしろこちらである。


もういちど確認しておこう。

愛とは何か。


では、人を愛するとはどういうことなのか。

かつてジョン・F・ケネディは民衆に向ってこのように呼びかけました。

「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが

あなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。」


これに習えば、

あなたの恋人があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが

あなたの恋人のために何ができるかを問おうではないか、という

ことです。

愛とは、この人は一体どんな人なのかしら、何をして欲しがっているの

かしら、もっと知りたいわ、ということに他なりません。

「人間の欲望は他者の欲望である」

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10630205712.html


愛はまずは一方向的な贈与の形をとらなければならない。

なぜ世界の親族集団は婚姻形態として平行イトコ婚をタブーとするのか

ということに想いを致したい。

それが類=公性の原点だからである。

神話論理の大地は反対給付の(無限の)有責性に始まったのである。


愛は返せない。なぜか。

中心には死者=虚があるからだ。

愛と死はねじれた形で分かちがたく結び合わされているのである。



さて、今、ぼくにおいて、前進は以上のような一切を打ち捨てることに

よってしかありえない。

ぼくは完全性を擬したい。

ここではヨブ的な決意が要求されるのだ。

ぼくは己の未来を抵当に入れることで、問い、答える「王=道化」を

演じる他あるまい。


ぼくは多くを求めない。

たっぷりと水を飲み、ゆっくりと歩くだけなのである。


*


あの、あなたはそれを言うことで、つまり何が言いたかったんですか?


よろしい。私がお答えいたしましょう。

(あらあら、ここにも「自分語り」が)

さて、では「紙コップに冷たい水を注いで舐めるようにそれを飲むこと」

を見てみよう。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10682717614.html


ここには「And we can stay all day!」で斥けられたはずの

「クールになれ」という言葉が反復されている。


大人になれよとか現実見ろよとかいい加減クールになれよとか

マジで地雷だからよろしくね。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10682048075.html


これはどういうことだろうか。


人間にとって死は不可知だったがそれを語るには鏡が必要である。

鏡は反復であり、時の否定であり、死である。


死者はトポスの著しくずれた存在だ。

いないはずのところにいる、語るべきことを語らない。

右は左で左は右、死ぬは生きるで、言うなは言えということなのだ。

(ちなみに、ダチョウ倶楽部の「絶対に押すなよ」という定型的なネタの

おかしみは赤ちゃんの「いないいないばあ」と同様の遊戯だろう)


「大人になれよ」「現実見ろよ」「クールになれよ」という言葉をこそ

ぼくは求めたのである。


そして、奇しくもこの三つはどれも葬送儀礼の術語=呪術なのである。


「大人になれよ」は、言語を用いる大人になれ、

「あなたは何が言いたいのか」ということであり、

「現実見ろよ」は「あなたは死者であるはずなのになぜ生の世界に

いるのか」ということであり、

「クールになれよ」は「鎮まり給え」ということに他ならない。


ぼくも驚いた。

だが人間は根源的な事態についてはすでにみんな教わっている

はずなのである。忘れたということは失ったということではない。

抑圧されていて引き出せないということなのだ。

「目=自由=理性=勇気と決意」があれば、赤子の手をひねる

よりも容易いことなのだ。

それは「問い抜かれた挙句放り捨てられる問い」である。


ところで言い忘れたが、ぼくは死者としてふるまっていたのである。

死者=幽霊とはなんだろうか。

それは反復される時間のことである。

グロテスクな姿をとって回帰し来る抑圧された過去のことである。


幽霊をなだめ事態を収拾するためには風通しを良くすることだ。

この風通しとは「交話可能性」のことだ。


*


「ねえ、ちょっと待ってよ。落ち着いて。なぜあなたはここにいるのよ。

あなたがいるべき場所は別にあるんじゃないの?

何が言いたくてこんなところにいるのよ。わたしが聞いてあげるから

言ってご覧なさい!」


ぼくにはあらゆる問題が氷解したように思われた。


*


 夕方になって日が翳り始める頃、僕たちはマントバーニのイタリア民謡の流れるホテルの小さなバーに入り、冷たいビールを飲んだ。広い窓からは港の灯がくっきりと見えた。

「女の子はどうしたんだ?」

 僕は思い切ってそう訊ねてみた。

 鼠は手の甲で口についた泡を拭い、考え込むように天井を眺めた。

「はっきり言ってね、そのことについちゃあんたには何も言わないつもりだったんだ。馬鹿馬鹿しいことだからね。」

「でも一度は相談しようとしただろう?」

「そうだね。しかし一晩考えて止めた。世の中にはどうしようもないこともあるんだってね。」

「例えば?」

「例えば虫歯さ。ある日突然痛み出す。誰が慰めてくれたって痛みが止まるわけじゃない。そうするとね、自分自身に対してひどく腹が立ち始める。そしてその次に自分に対して腹を立ててない奴らに対して無性に腹が立ち始めるんだ。わかるかい?」

「少しはね。」と僕は言った。「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」

「ひとつ質問していいか?」

 僕は肯いた。

「あんたは本当にそう信じてる?」

「ああ。」

 鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。

「嘘だといってくれないか?」

鼠は真剣にそう言った。

(村上春樹、『風の歌を聴け』、講談社文庫、2006年第5刷、120-122頁)


*


「真間の入り江」という場所がある。

「真間」とは切り立った崖のあるところを言い、入り江は現在ではスッポン

と金魚とウシガエルとザリガニと浮き草でいっぱいになっている。


石畳を歩き、継橋を横目に石段に向う。

かつて鈴木修理長頼という役人は仕事で失敗をし責任をとるためこの石段

の上で切腹したが、彼が腰掛けていたその石は晴れの日にも乾くことなく

いつも濡れているという。


石段を登ると仁王が睨め付ける門があり、それを抜けると「伏姫桜」と

呼ばれる荘厳な枝垂桜が構えている。


ぼくにはここではこの桜の樹こそが誰かさんの言うハーバーライトなのだ

と思われてならなかった。


*


「成熟性/有責性/現実性」とは全て同一の事態である。


「どーすかΩ」とは「もしもし」ということだ。

ここにはコミュニケーションが成立しているという圧倒的な確信の

ことなのである。


ラジオDJなら何か叫ぶかもしれないが、ぼくは照れるから言わない。


*


さて、以上で、とりあえずぼくなりに一つけじめをつけたつもりだ。

解きほぐし、学びほぐしみたいなこと。

まだ負債が残っているが、それはぼくの個人的な問題だね。


というわけで、ぼくは大いに語らせていただいた。

もち、まだ喋るがね。


でもさ、ぼくのおしゃべりに付き合ったみなさんは今度はぼくに

話を聞いてもらう権利を有しているわけで、

それを行使することもできるわけです。


本当は書いちゃいけないことなんか何ひとつないんだってこと。

信じたいものを信じ、見たいものを見て生きればいいと思うけど、

そんなのってぼくはぜんぜん気にならないのだということ。

人間の倒錯なぞ高が知れているのだと、ぼくは思う。


ぼく酔ってんのかな。

でもアイスコーヒーしか飲んでないぜ。


まあいいや。いつでもどうぞ。