僕は時折嘘をつく。
最後に嘘をついたのは去年のことだ。
嘘をつくのはひどく嫌なことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく嘘をつきしょっちゅう、黙り込んでしまう。
しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値などなくなってしまうのかもしれない。
(村上春樹、『風の歌を聴け』、講談社文庫、2006年第5刷、131頁)
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「ぼくは嘘ばっか言ってるし、さかしらな薄っぺらいことをべらべら話している。それは否定しない。」
まあ確かにその通りだったし、どうだろうか。いや、やっぱりその通りだろう。うん。
でもぼくが思うに、嘘ってのはまだかわいいものなのだ。ぼくの軽口はきみたちの無口より、ずっとマシじゃないかと思う。
どうなんだろう。言うべきでない言葉ってあるかい?言ってしまってから後悔することって、本当にあるだろうか。
いや、ま、言ってしまってから後悔することはしばしばあるだろうね。少なくとも、言う前に後悔することよりは多いように見える。「後悔先に立たず」…と、誰かが言ったようにね。
言ってしまうと取り消せない、言うと本当になる。言語の限界が世界の限界…。
言ってしまうと取り消せないということを盲目的に信じているから「言ってしまって後悔する」ということが発生するわけだな。
だって信じてないんだったら、つまり取り消せると信じているのであれば、そうすれば、取り消せばいいんだものね。パチン!スイッチOFF!!
後悔というのはごく人間的な現象なんだな。そして実はすごくラディカルだ。
これが本当に本当の現実であることは無根拠だったのだものね。だから盲目的、っていうんだ。
うん、まあいいや。そんなことは悪いけど、どうでもいいや。
後悔について考え抜いても、まだ、言うべきでない言葉があるかどうかっていうことには届かない。「べき」というのは社会性と正統性の問題だからだ。
でも、とは言ってもここではパワーゲーム論には踏み込まない。そんなことはどうでもよろしい。
私的社会性と私的正統性というものが世の中にはあるのだ。
それは立場即意見という、「状況に予め内包された狡猾な契機」に引きずられるように到達されるコロラリーなのであって、そこには一切の人間的自由がないのである。それは「べき」という初めの定義に悖るのである。
だって選択の自由がなかったらべきもクソもないよね。
ぼくが問題とするのはあくまで公性だ。公的社会性と公的正統性が問題なのだ。
そしてそれは「人間」という檻だけだ。
ここまではいいんだ。で、なんだっけ。軽口か無口か、ってことだ。ま、もういいや、めんどうになった。
嘘と沈黙なら嘘の方がマシだ。なぜか。
嘘は人間を追い詰めるけれど、沈黙は人間を殺すからだ。
だが、異論はない。ここにあるのは沈黙だけだ。
同化と異化が同時に進行している。それをぼくはディスレクシアと呼び、また近代と呼んだのだった。