うーん…。
ブログって何書けばいいの?
と、
言いますか…(;^_^A
どういう口調で?書けばいいんだろうなあ(-。-;)
みんなはどうしてるんだろう?
んじゃーね(^з^)-☆Chu!!
…みたいなブログにあこがれるところがある。
なんかノンキで楽しそうだなーってさ。
顔文字かー。
これが高度な文化的展開ってことになるのかな。
ふーん、そうなのか。
でも、ま、ぼくが「んじゃーね(^з^)-☆Chu!!」なんて
使う日は来ないだろうな。
何にもオチてないじゃんね。
ん、なんか頭がぼんやりする。
今考えながら書くからちょっと意味とれないかもな。
ごめん。
ブログメディアってラベルがあるよね。
どこに書くか。どのように書くかってことだってさ、大いに
メッセージになるわけですよね。
同じ文章であっても、
2ちゃんに書くのとアメブロに書くのと発言小町に書くのと
ニコニコに書くのとはてブに書くのとプロフに書くのとmixiに
書くのとTwitterに書くのとでは違いますよね。
それでブログって価値がある。
ブログってなにかしらんみたいな議論はまああるわけだけど
孫引きで申し訳ないんだけど「ミドルメディア」って概念があります。
ミドルメディアの時代 (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/10_1144.php
ミドルメディアを佐々木さんはこう定義する。
「特定の企業や業界、特定の分野、特定の趣味の人たちなど、数千人から数十万人の規模の特定層に向けて発信される情報」(52頁)
これなんですよね。
特定の話題、情報を集中的に提供する場所になっていく
だろうってことです。
実際そうなってると思う。
ブログ圏、ブロゴスフィア、良質のゆるやかなブログ共同体?って、
今のところほぼはてな界隈しかないような気がするんだけど
でもみんな社会人ですから(ぼくくらいのガキもいるんだけどね)、
肩書きがある。
数学者とか経済学者とかウェブサービス業経営者とか
おちゃらけ社会派ブロガーとかさ。
基本的には成功してるっぽい人が話してるほうがさ、
経験的になんとなく、その発言の正しいであろう蓋然性が
比較的高いような、気がする、
と、人は言う。
まあ概ね正しいよね。
でも、ここが趣味の問題で、ぼくは
その人の社会的な健全さにちっとも説得力を覚えないんだな。
ぼくはね、「であること」にとっくり満足して、あまつさえそれだけから
利益を引き出しちゃったりするような人々が、
腹の底からきらいなんだな。
これはまあ悪い癖というか、好みの問題だから
仕方ないんだけど。
って言うと不問に付されるかららくちんです。
で、なんだっけか。
ぼくみたいに感情的な人は話がくねくねしてくると本旨を
忘れちゃうんだよ。
えっと、そう。
ぼくは特定の話題を選択的に語る中くらいの規模のメディア
っていうのが、ちょっと我慢ならない。
いや、ことの筋目として、そうなっていくものだし、そういうものが
「よい」のだとすることのメリットはそこそこ理解するんだよ。
でも、特定の話題を選択的に語るってのがイヤ。
ぼくは世界をまるまる欲しいわけ。
いや、ちがうかな。
別に世界がどうなろうと知ったこっちゃねえっていうような
引きこもり心性なんだけど、
たぶんぼくは女の子に「あなたって底が知れない人なのね」って
言われたいようなのだ。
これはまあ、わりと一般的な部分がある。
人を愛するとはどういうことなのか。
かつてジョン・F・ケネディは民衆に向ってこのように呼びかけました。
「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが
あなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。」
これに習えば、
あなたの恋人があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが
あなたの恋人のために何ができるかを問おうではないか、という
ことです。
愛とは、この人は一体どんな人なのかしら、何をして欲しがっているの
かしら、もっと知りたいわ、ということに他なりません。
「ねえ、もうほんとに黙ってよ。
あなたのことはもうみんなわかったから。」
ね、これはどう見ても愛の終わりですよね。
「わかった」って言ったら呪術的に死んでしまうわけです。
だから「あなたのことをもっと知りたい」って言われたいわけだよね。
特定のことを話してたらさ、ここにきたらこういうものがある、って
ことがわかっちゃうわけで、んなのイヤじゃん。
底が知れたら、喪黒福造よろしく「どーん!」って転落しちゃうわけだ。
だから絶えず逃げ続けなくちゃいけないみたいなことがある。
例えば本屋でエロ本を買うとする。
まあエロ本って概念自体だいぶ古い気がするけどな…。
エロ本とエロ同人誌とエロマンガをレジに出したらさ、
整合的じゃない。
でも、
エロ本と共産党宣言と時間の比較社会学もってきたら、
店員による瞬間的な判断「ふーんこいつわかりやすいな」
ってレッテルをちょっと停止できるじゃない。
意味から解放されるような気がする。
…錯覚か。
ぼくはエロ本は買わないんだけどエロマンガに近いマンガ
なら買う。
そうしたとき、
エロマンガを共産党宣言と時間の比較社会学の間に
隠すようにもって行くのではダメなのだよ。
むしろ、エロマンガと共産党宣言の間に時間の比較社会学
を挟んで、恥ずかしそうにエロマンガと共産党宣言を買うのが
よい。
この場合、エロマンガと共産党宣言を併読するには
ぼくにはよくわからないが、何か強固な論理的必然があり、
そこから逸脱的な時間の比較社会学を購入することは
むしろある種の恥を引き起こすのである。
みたいなさ。
はんにゃのギャグ?に、
「いみわかんねーしはぁ?」ってのがあったけど、
ここではこれはむしろホメ言葉です。
そうですか、わからない、あっはっはっは。
「特定のことを話してたらさ、ここにきたらこういうものがある、って
ことがわかっちゃうわけで、んなのイヤじゃん。」
ということについて、もうひとつ。
ぼくはテクストというのは、主体的にそれを読んでやったり
読んでやらなかったりするのではなく、
テクストがぼくたちを呼び、そのときどきにある意味を開示してくれたり
してくれなかったりするのだ、
と、思っている。
だから、ぼくたちはしばしば、
「求めたものとは別のものを学び取る」のである。
そのように考えたとき、ぼくがみなさんに対して、
贈与しうるのは、
みなさんが求めたもの、
検索エンジンから特定のキーワードを辿って
ぼくのブログを訪れてくれる人がたくさんいるけれども、
そのキーワードにまつわる話ではなく、
それとはぜんぜん違うものを、ここに見出していただきたい
と思うのである。
そのことだけを、ぼくは贈与しうる、というか、
みなさんが、ぼくからなにかしらのものを贈与してくれた、
って思ってくれることがあるとすればそれは、
ぼくの意図を超えてみなさんが勝手に読み取ってくれたもの
だけなのである。
と、まあ以上のような心的傾向は、
結構古いセンスだとおもう。
戦前のアカデミアに見られる古い教養主義や、
全共闘的なセクトの美学みたいなものや、
あるいは一番古いおたくの人々は、
たぶんわかってくれるような気がする。
ぼくは諸君がきらいだが、でもちょっと好きである。