如何に考えるか、如何に語るか、如何に生きるか。
今、きみたちにとって、それが全てじゃありませんか?
ここでは、まだ名前もないけれども、「ぼくたち」の
とりあえずの綱領みたいなものを書きたいと思います。
時代に向けた未来への宣言って、しばしば名前もない
周辺の人間によって発せられるものですよね。
それが今です…ってぼくは言うに決まってるんですけれど。
さて、
この時代は、社会が大変なディスレクシア(失読症)に陥って
いるのではないかと思います。
世界について考える言葉が失われているのではないか。
たしかに生活言語ならあるし、言葉遊びのような排他的な
ジャーゴンは日々更新され続けています。
でも、それは老いぼれ犬のように同じところをぐるぐる回っている
だけであって、真に世界を捉えることはできていないのではないか。
ジジェクがインタビューで話していましたが、
「理論はない、というのがぼくの理論だ」ということになりそうです。
ディスレクシア。
少し適当ではないかもしれません。
ぼくは他に、こうして話し言葉だけがくるくると回っていて、
積み重ねられていくような書き言葉が見当たらない状況を表す
うまい比喩を思いつきませんでした。
「悪しく劣った醜い病態は良く優れて美しい健康体へと治癒され
なければならない。」
そんなチープな色眼鏡は、ぼくはとうに放り捨ててきたように
思いますから、きっと大丈夫でしょう。
ぼくがディスレクシアと言うのは、結局のところ、
語られるものが性と暴力とお金のことしかないように見えるからです。
でも、仮に語られる内容が性と暴力とお金のことしかなかったとしても
まだディスレクシアと呼ぶには十分でないでしょう。
そうですよね。
言葉に対応する世界のほうが本当に性と暴力とお金の三つで全て
であるならば、それは剰余も不足もない完全な言葉、真理である
はずです。
けれども、それは間違っています。
一つには、完全な言葉などというものはないから。
「言語は構造上つねに部分でしかありえないが、「完全で無矛盾な部分」
は存在しない」からです。
実際、ここでも「お金」について語られていますが、「貨幣とは将来に
おける欲望の充足可能性であり、未決定性を有する、であるがゆえに
万能であり、かつ、無能である」ような事態です。
ここで言われている(というかぼくが言ってるんですが)、「将来」とか
「未決定性」といったものは外部性です。
定義のうちにすでにして外部性を内包しているんですから、それは
不完全だということになります。
そうであれば、言葉は刻々と流転する世界にぜんぜん追いついていない
わけで、そして実際、人はこうして言葉抜きでやってきてるんですから、
じゃあディスレクシアではないのかと、ぼくは指摘申し上げたのです。
一方で、「ふーん、ディスレクシア。じゃあそれでいいとして、その上で
何か問題でもおありかしら?」という向きに対しては、どう答えるでしょうか。
大いにあると思います。それはエロースの問題です。
文明は文字と共に始まりましたが、文字がなければ人間の共同性を
支えられません。
一万年前ならそれでもいいかもしれないけれど、地球上にこれだけの
人間がいたら、共同性の物語なしでは暴力を停止できないと思います。
…と、書いたら、ディスレクシアって言葉はちょっとずれてるかも
知れないって思いました。
厳密には話し言葉と書き言葉ではなくて日常言語と神話言語の違いって
ことかな…?
うん、よくわからないから今は置いとこう。
なんだっけ。エロースの問題なんだ、と。
そして、だからなんだか世の中にはスカスカな美辞麗句か、あるいは
「それを言っちゃあおしめえよ」っていう元も子もなくなっちゃうような
解体的な言葉かのいずれかしかないように見えるんです。
なんだかうすっぺらいなぁというのがぼくの正直な印象です。
ぼくみたいに飽きっぽい人にとっては、ホントにひどい世界です。
うんざりしません?
ぼくはうんざりします。
じゃあどうするのか。
そうですよね。結局のところ、世界にとってその思想が何がしかで
あるとしたらそれだけだと思うんです。
そうした意味で、現代はディスレクシアの時代、空虚な時代だと、
ぼくは思ったのです。
反動ばかりで原理論がない。
ぼくはやはり考え、語る他あるまいと思います。
「じゃあどうしたらいいのか」ってことだって言葉によって考え、
言葉によって語られる以外に現象しえません。
ではディスレクシアの渦中にあって、そういうアクロバティックな飛躍は
どうしたらできるのか。
たしかに、言葉のないところに言葉はありません。
このトートロジーは残念ながら有効でしょう。
「人間であるとはすでに人間であるということだ」ってことですよね。
そして、ここではもう半面、「人間であるとはまだ人間であるということだ」
を頼りましょう。
つまり、まだ「本当は」言葉は失われていない、と語ろうと言うのです。
どのようにして?
ぼくは歴史を学ばなくてはなりません。
予め言っておきます。
平成の内部から平成について語ることは不可能です。
当今のほとんどの言説は無効であるように思えます。
平成は昭和以前の言葉によって語られなければならない。
ぼくはこうしたスタンスをとります。
でも、これって本来きみたちの仕事ではないですよね。
先行世代が新しく展開しつつある世界を捉える為の言葉を練り上げる
仕事をネグレクトしてきたツケが回ってきているのだと思います。
昭和が終ったことが相当ショックだったと見えます。
でも、ま、ないものねだりはほどほどにしましょう。
ここにはきみたちの他にガキとジジババしかいない。
オーケー?
ただ、「平成の内部から平成について語ることは不可能です。
当今のほとんどの言説は無効であるように思えます」って、
こうした態度ってほとんど「不敗の構造」に見えません?
確かに一面にはその通りだと思います。
でも、それは無時間モデルでことをまなざすからであって、
実際には「今のところの正しさ」にすぎません。
ニューウェーブはつねに、先行世代への巨大なノーとして
立ち現れてくる。
それはディスレクシアの只中にある新しい構造化の言葉です。
今日の言説空間のどこにも位置づけられないために、反って
偏在しうる。
きみたちは社会の維持存続のために跳躍しなければならない。
予見し得ないサルト・モルターレ!
そして、きみたちもまた、「やがて打ち捨てられるべきラダー」に
他ならないことを、遂に知ることになるでしょう。
その限りにおいて、きみたちは正しい。
きみたちは時代を誇るべきだと思います。
きみたちは革命において鉄鎖のほか失うべき何ものをも持たない。
きみたちは世界を獲得しなければならない。
万国の友人諸君、団結せよ!