10年代・われらが時代 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

とにかく考え続けるしかない。

切羽詰って、衝動的になにか行動を示したいって

考えがちだけれど、でもダメだと思う。


「そうした理念的かつ抽象的な議論が何になるというのか。

前線における行動だけが全てではないのか。」


ノー、「無知が役に立ったためしはない」のである。


ぼくは時代に対して責任を負っているということを強く想う。

とくに、それはぼくと同世代の人に対して。

具体的に想像できるのはプラスマイナス二歳くらいかな。


「今時、時代への責任なんて大掛かりなフィクションもないだろう。

くさいだけでなく、世代性ということが既に失効しているのでは

ないのか。」


これはよくわからない、としか答えようがない。

たしかに、ぼくもそんな気がする。

そもそもそういう重いのを一番嫌うのが、たぶんぼくだろう。

ぼくがそんじょそこらにはなかなかいないような傑出したへたれ

であることは自他共に認めている事実だ。


が、ぼくたちは方便という水準を理解しなければならない。

「切羽詰って、衝動的になにか行動を示したいって

考えがち」であるような人間がそこにいるとき、

「時代に対して責任を負っている」というようなフィクションを

迂回することによって、その人間の暴走という潜在的なリスクを

無効化することが必要である。

今日において暴走とは、具体的にはテロリズムであるように思う。


時代に対しての責任は、死によっては全うされない。

それは時代を生き抜くことによってしか、果たすことが出来ない。


そういう論理がぼくには必要だった。


悪とは、通俗的な理解とは違って、

倫理の一切を掘り崩してしまうような絶対的な事態である。

ぼくたちはしばしば人を殺したり殺さなかったりする。

だがそれがどうしたことか。

どうにかなったりどうにもならなかったりする。

きみが死んだところでぼくには大したことじゃない。


だが悪は違う。

倫理的なものの一切が崩れれば、何もない。

人間的な活動の一切が否定されてしまうのである。


なぜか。

「人間である」とは「「人間ではない」ではない」状態に移行して

しまっているということだが、そうした人間の基本的条件が

「ただ生きる」ことを許さない。

そして、「如何に生くべきか」という問いは「倫理」とそこからの逸脱

という図式の上にしか成立しないからである。

だから人間についてはつねに倫理が問題になる。


そうした意味において、

ぼくは腹の底では悪人であるかもしれない。

ぼくはこの世の中というものに対して、

はっきり言ってリアリティを覚えなかった。

これはぼくだけの問題ではないかもしれない。

今日、多くの人が、あなたが、どこかそう考えているかもしれない。


世の中が一体なんだというのか。

それが何になるっていうんだろうか。


だが、ぼくはこのようには問うていなかった。

ぼくは端的に、世の中なんてさ、なんて言いたいのではなかった。


ぼくはこれが正に世の中なのであってこれが現実であって

切実であって迫真であって壮絶であって

光り輝いていて暖かくて充実していて、

つまり「これ」だけが問題なんだということを、誰かに示してもらい

たかったのかもしれない。


だけど、それはどうも叶わなかった。

誰しも、そのことについて、本気で考えているようには見えなかった

のである。

だから、ぼくは自己自身によって考えざるをえなかった。


思えばぼくは、自分で言うのはなんだけどさ、

結構「いい子ちゃん」だった。

八方美人的であった。戦後民主主義的であった。

しばしば左翼的であり、理想主義的な「まあいい奴ということ

なんだろうね」ではあった。


ぼくには好きな女の子がいた。

いや、違うかもしれない。好きな女の子がいたことにした

だけだったかもしれない。今ではもうよくわからない。


だが、ぼくを好きな女の子は一人だけいたようである。

ぼくのうぬぼれでなければ。


やがてぼくは「そういった話」の場面に遭遇した。

そして正に展開が核心に入りつつあるとき、ぼくはなにかつまらない

冗談を言ってその言葉を遮った。

ぼくは上の虚像のようなものについて言外に、だがはっきりと、

それはニセモノだぜ、って言った。


ぼくは八方美人的な日和見的な二枚舌的な態度を保ちつつ、

だが本当さということを考えていた。

そういう意味で三枚目の舌である。


ぼくは彼女の言葉を遮ったことに対して、責任がある。

はっきり言って、ぼくにはもったいなさ過ぎると思われた。

彼女はぼくの言う(わない)通り、虚像を見ていたのかもしれない。

あるいは、本当は、ニセモノの向こうに、本当のぼくなるものを

見て取ってくれたのかもしれない。


だがぼくにはまるで自信がなかった。

この世の本当さということと、ぼくの本当さということは、

ぼくにおいては一致していた。

そして、その両方共について、ぼくに教えてくれる「大人」は、

ただの一人もいなかった。


実際にはミレニアムには、ぼくはまだ彼女に会っていなかった

けれども、本当は、あるいは彼女こそその時々に回帰しぼくに

光を与えた守護精霊であり続けたのかもしれない。


なんて言うといよいよ重い。…やれやれ。


以上はつまらない、ありふれた憧憬に過ぎない。

が、真にはこれだけがぼくの根であるかもしれない。


さて、問題はここからである。


今日的な問題とは、物語る言葉の衰退である。

本当に世界について考え、本当に語る言葉が、ただの一つもない。

それがこの時代の最大の難点である。


ではどうしたらいいのか。


「責任者はどこか」とがなり立てることか?

まさか。

言葉の衰退とは、「私が語る言葉」の衰退に他ならない。

「ここには大人がいない」という言葉こそが子どもの証である。


ぼくたちは、大人と子どもを分かつ線なんて何ひとつなく、

本当は大人なんてどこにもいないのだということを知ることに

よって、逆説的だが、大人になるのである。


ぼくはその言葉をすでに提出している。

もう特に声を高めることもない。

ぼくがキャッチャーだ。時代はぼくと共にある。


巷に溢れるお子様方になしえなかったことを、

大人はそれこそ粛粛と進めるだけである。


だがそれは語るものではなく生きられるものだ。

ぼくたちはそれを旅するほかにない。

ぼくは真理を信ずる。現実を信ずる。倫理を信ずる。


ぼくたちはのんびりとやらせてもらおう。