いそいでメモ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

うーむ…頭がいたい。


昼寝すると頭が痛くなるんだよね。

ぼくだけ?


*


あれから、時代への責任ということを延々と考えている。

どうすりゃいいんだろうな。

それをこそ、ぼくは答えないといけない、ってのが

時代への責任ということである。


そのね、ぼくだってこんな文体、クソ喰らえって思ってるのよ。


だけど人間ってのはだね、乗ってる舟が沈みかかると、

向こうからやってきたさもありなんという「迎えに来る解釈」に

飛びついちゃうような生き物なんだよね。


そういう奴らをごまんと見てきたからね、えーとそうだな、

そんなことをすると思うと「舌噛んで死んじゃいたい気分」になる

わけ。(たしかにベンリね。いくぶん伝わるしね。)


基本的にはやっぱり、(特殊)体系を演るか否か、という問いに

帰着すると思う。


というのは、人間ってのは自然からの疎外だったから。

主体とは(ここで言うのはやや微妙だけど)、病に生きることであり、

また、生きるという病だったからだ。


「演るか降りるか、それが問題だ。」


ごきげんなひび

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10614179284.html



アクチュアリテなるもののためには

説得力が必要です。

まあそれがなんなのかもよくわかりませんが、

あたかもほんとうのことであるかのような語り=騙りが必要です。

認めがたいものを認めさせるためには、

風景が変わりルールが変わったのだということを

まるで信じているように、ぼく自身がパフォームすればよい。


ぼんやりマップ

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10647299376.html


この辺がひとつ。


ぼくはいつか「人間」はやめられるんだし、

反抗みたいなパフォーマンスとしてやめるってのも

ありじゃないか、みたいなことを書いたことがあった。


でも、どうも人間やめつつあるのが時代の方なんじゃ

なかろうか。


じゃあここでは

人間という反抗が人間への反抗でもあるのかもしれない。



…今日、お昼ご飯に塩ラーメン食べたんだけど、

あのチャーシューがすごくおいしかった。



あーおなかへってきた。