乗り越え可能性についてのメモ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

こんにちは。


ぼくはぼくで色々と考える。

で、とりあえず今のところ、

考えをひとつの思想として、背骨がある、一貫した、自立した、

なんだろう、それこそ依り代として編み上げることができない。


今はまず自前の思想を放棄した。


はっきりいって力不足である。


ぼくは何を考えつつあったのか。「時代の乗り越え可能性」だ。


すごく大まかに言って、現代日本はなんとなく生きづらい。

それはなんなのか。

どうしたらそれは操作したり解体したり乗り越えたりできるのか

できないのか。


ぼくはどうしたらいいんだ?


これはぼくの中でなぜ考えるのかなぜ生きるのか

という問いと一致する。


一昔前「どうして殺してはいけないのか」という問いが流行った。


ぼくはこの問いにコンスタティブには

答えることが出来ない。


では、答えることが出来ないなら「殺してはいけないというわけでは

ない」はある程度は妥当性をもつのか。

あるいはさらに積極的に「殺すべきだ」という主張はあるのか。


まあ誰でも素朴に違和感をもつ。


その前に「なぜ生きるのか」あるいは「なぜ死なないのか」と

問うてみることにしよう。


ぼくは自殺というのはふつうパフォーマンスとしての側面があるから

みっともない、押し付けがましい、とにかくやめろ、と書いたし

思っている。


状況の切実さ、当事者にしかわからない辛さ、

輝かしい生の意味、否定による最高の肯定、

お前らには絶対にできないことを成し遂げるという

転倒された固有性。


枠組み自体へのエポケーなく「転倒」した力。

それをニーチェは奴隷道徳として批判したんだ。

ぼくはナンセンスだとおもう。


自殺による抗議というのは、否定できないくらい誰の目に見ても

正しい、痛ましい、美しい。

不敗の構造はあっという間に腐敗の構造に転化する。

ぼくが一般に「遺族の会」を疑わしくまなざすのは

そのためである。


否定できない正しさ、それは科学ではない。


科学性とはなにか。

その意見なり思想が論破される条件を付記した仮説

であるということだ。


で、なんだっけ。

そうそう。

人知れず失踪して人知れず自殺した場合は、

ぼくはこれにたいして中立の姿勢をとる。

すいません、わかりません。


死とは端的に不可知性であったけれど、

わからないということは比べようがないということである。


ただ、ぼくは気がついたらすでにもう、あるいは今のところまだ

生きている。

状況へ投げ込まれていて、そこから一切ははじまる。

だから生きるつづけるべきか生きるのをやめるべきか、

と問うべきだ。

死が問題になったことは一度もない。


他者についても同様である。

他者とは端的に不可知性であった。

だから他者を殺すべきか否かと問うのではなく、

私について考えるところから始める他ない。


だからまずは時代を引き受ける。

そういうことである。


「乗り越え可能性」はあるのか、ないのか。

それは個別の具体的な状況によるだろう。


同じことをするにも場面(コンテクスト)によっては

できたりできなかったりする。


例えば地面に置いた木の板の上を目隠しして

歩くことはできても、

地上200メートルでビルとビルの間に渡した

板の上を歩くことが出来るか。


できたりできなかったりすることだろう。


けれども、変化する「場面」においても、

「変われば変わるほど変わらないもの」が

存在することをぼくは信じる。

それを構造という。


乗り越え可能性についての構造は、

「あらゆる状況についてそれを乗り越える契機は

予めそれそのものに内包されている」というのが

それである。

これを今、「潜勢的超越可能性」と呼ぼう。


したがって、変革を望む人間はまずなによりも

現今の体制であり状況をよく観察しなければならない。

そして、しばしば、体制を壊し状況を変化させる契機は

体制を支えるはずの「悪しき新しきもの」として、

ぼくたちの前に映現する。


それが「向こうさんの言い分」に耳を傾ける最大の

動機である。