とにかくわからない。
わからないものはわからない。
わからない ああわからない わからない
もうまとめようという気も起こらない。
いや、できないの間違いなんだけどさ。
ベンヤミンによればアウラとは
「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に
現れているもの」である。
でもその「モノ」というのが肝心だとおもう。
何か、指示するモノがなければ、
アウラを感じることもないだろう。
そこになんていうか、
ミョウバンの結晶をつくったときの、
針金にくくりつける芯がないと大きくならない、みたいな。
それを依り代と呼ぶ。
で、一方で、
名と実について。
人間というのは、それを成り立たせる根拠がひとつずつ
ずれた動物だと思う。
それが動物における全体性からの疎外であるし、
鏡を見て赤ちゃんがそれを自分だとわかるってことを
担保している…。
大まかに言えば、名と実の不一致、
二項対立っていうのが人間にとっての世界の成り立ち
であり認識の成立に深く関わっている。
古いものと新しいもの、時間。
近いものと遠いもの、空間。
アプリオリなものはみんな二項対立である。
カントの物自体だって
物自体-現象の二項対立だ。
人間のはじまりは私-世界の二項対立であり、
他の一切はその根源的二項対立のバリエーションでしかない。
と、今思いついた。
人間はサルから進化してきたのであるから、
実が名に先立つ。
が、人間は名と同時に発生したのだから名は実(の認識)に
先立つ。
したがって<実>→<名>→「実」である。
だが、人間は認識した世界=「実」の向こう側に、
ほんとうの完璧な全体の世界を幻想してしまう。
<実>→<名>→「実」→「「実」」
そして、それにアウラだとか真理だとか神だとか
名づけるのだ
<実>→<名>→「実」→「「実」」→「名」
ややこしくなってきた。
そうやって見出された「名」は固有名と呼ばれる。
現実性の担保としての固有名。
現実とは<実>のことだ。「「実」」のことではない。
<名>=言語がある限り現実には触れ得ない。
だから現実については沈黙しなければならないのである。
ところで、実際に状況を生きる人間にとっては、
アウラみたいなものは、ほんとうに実感される。
現実性の担保であるから、それを否定するのは
むつかしい。
否定するとすぐに足元が溶けてくる。
己の主張の正当性、現実性が揺らぐのだ。
だから絶えざる抗議の持続が唯一可能ではないか。
わからない。