「人間はない」のにある、「倫理はない」のにある。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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まずは、倫理とはなにかということを考えてみましょう。


カントによれば倫理というものは定言命法でなければ

なりません。

定言命法とは、仮言命法すなわち

「もしもあなたがかくかくしかじかのことを望むならば

そのようにしなさい」

という、条件の伴う命令に対置される、

「ただ、他のどんなことのためでもなくそのためだけに、

そのようにしなさい」

という命令です。


なぜ倫理は仮言命法ではいけないのでしょうか。

正しさに条件を設けるということは正しさはその特定の条件の

下でしか成立しないということになります。

しかし倫理とは常に普遍妥当的な正しさのことですから、

ある場面では正しいけれども別の場面では通用しないという

のではもともとの倫理の定義に悖るのです。


だから倫理という概念を考えるのであれば、それは普遍妥当的

かつ自律的な定言命法でなければなりません。

そうではなく、仮言命法のもつ現場参照的な「リアリティ」のうちに、

むしろその非-普遍妥当性のうちに普遍妥当性を求めるので

あれば、その人は倫理について語るのではなく、相対的な偽-善に

ついて議論すべきでしょう。


けれども「非-普遍妥当性のうちに普遍妥当性を求める」というのは

明らかに無理筋であって、仮言の説得力に依存しては、最も人間の

善が問われるような場面すなわち災害時のような社会システムの

危機的な場面における善の失効を防ぐことができません。

仮言の説得力によっては、「条件が他の方法で満たされるのならば

わざわざその偽-善を守らなければならない必然性はないではないか」

という問いに答えることができないからです。


しかし「倫理は自律する」とはどういうことでしょうか。

自律ということは他に依存しないということです。

依存しないとは、その存在は依るべき他を持たないということであり、

他によってその正当性を基礎づけることができないということに

なります。


倫理は何者によっても基礎づけることができない。

これは大変なことではないでしょうか。

だって、倫理は宙に浮いているということになるからです。


ぼくたちはふだん、「倫理」と聞くと、何かずしりと重たいようなもの、

長い年月の間でたくさんの季節を乗り越えて、その上になにか時代

ごとの人間から生まれる情念の澱のようなものが降り積もって、

目がくらむような地層を形成しているのだ、という感じを受けるのでは

ないでしょうか。

でもそうではありません。

倫理は無時間的・非空間的な概念です。

倫理とはただ善い、ということです。


けれども、ぼくは倫理というものだけではなく、

他のアプリオリ(=無時間的・非空間的)な諸概念について

完全な絶対性を与えることには少し抵抗があります。

手放しの形而上学ではなく、そこに一つだけ楔を打ちたいと

思います。

それは、「人間にとっての」という制限的形容を施すことです。

つまり、ぼくはただ人間にだけ仕えるということです。


倫理が普遍妥当的・無時間的・非空間的であるということは、

裏を返せば倫理はあらゆる場面に参入しなければならない

ということになります。

人間にとっての倫理は人間にとっての全経験に応答しなければ

ならない。

倫理は常にすでに問題になる。

そういう厳格さが倫理の特質です。


さて、やや唐突ですが、ここで「欲望」が登場します。

なぜか。

「あらゆる人間的経験は欲望についての経験である」からです。


ジャック・ラカンは「人間の欲望は他者の欲望である」といいます。


この「他者」という言葉は指示する意味範囲が広く、曖昧で

よくわかりませんから、ここでは簡単に「私ではないもの」と

しておきましょう。

また「私」というのは「私」であって「私ではないもの」ではない

ですよね。それは余りにも当然のことで、ちょっとくどく感じられます。


ところでぼくたちは、「人というものはネ、かくかくしかじかなんだよ」と

説教されたとき、それに対して「人」のところに「私自身」を

当てはめてみてその主張の正しさを評価します。


「人間はね、みんな夏がダメだったりセロリが好きだったり

するのね」

「はん、そんなの嘘だね!ぼくは夏が好きでセロリがダメだ。

ここに生きる反証がいる!!」


ラカンの言葉をもう一度見てみましょう。

「人間の欲望は他者の欲望である」


人間というのは、「私」だって人間です。

だから「人間」に「私」と、「他者」に先に考えた簡単な定義を

代入してみましょう。

「私の欲望は私ではないものの欲望である」

これってちょっとヘンですよね。


「私は、私であって、私ではないものではない」

「私は、私ではなく、私ではないものである」


もしも両方ともに正しいのであるとすれば、誰が見てもわかる

ように、一組の命題は対立していますよね。


このように対立する主張のいずれもが正しいようであるとき

(ここではラカンが正しいとすればですが)、

ぼくたちはどのように考えたらよいのでしょうか。

こうした状況によく似たことをぼくたちは知っているはずです。


それは「法廷」です。

法廷においてはしばしば、対立する原告側と被告側の

主張のどちらも一見正しいようであるという場面が発生します。


そうしたとき、裁判官はどちらの主張の正しさにも与しては

いけません。

対立する見た目の正しさの両方を斥け、それらを越えたところに

まったく別の正しさを見出さなければなりません。

そして新しく発見された正しさの下に審判は下されるのです。


したがって、今、「私は、私であって、私ではないものではない」と

「私は、私ではなく、私ではないものである」という主張はどちらも

斥けられます。

「私は、私であって、私ではないものではない」とは

「私は私のようである」であり、

「私は、私ではなく、私ではないものである」とは

「私は私ではないようである」とするならば、

このどちらの正しさも、超越論の水準(それらを越えたところ)から

判断すれば、誤りである。


したがって、私はどのようでもない。

「私は、ない」という正しさが、今、発見されました。


この結論はいささか刺激的ですけれども、これで正しいはずです。


そして、この「私はない」という水準からもう一度「私=人間」を

まなざすとき、斥けられたかつての正しさはもはや何の根拠も

持たないことが明らかになります。

つまり、あらゆる人間的経験は「人間とはなにか」という根源の

不可能な問いを隠蔽した大地の上に生起するということです。

人間とはなにか、人間はいかにして可能か、そう問う前に、

すでに人間的経験に放り込まれていること、それが人間的経験

の構造です。

だから「実存は本質に先立つ」のです。


それは換言すればあらゆる人間的経験は常にすでに到来している、

ということです。

それは稀にまだ到来していないものではありません。


さて、ここまで考えたとき、先の倫理の議論に戻ってみると、

「倫理は常にすでに問題になる」のであり

「あらゆる人間的経験は常にすでに到来している」のだから

「人間にとっての倫理は人間にとっての全経験に応答しなければ

ならない」ということになるのです。


そして、倫理と人間的経験は同時です。

どちらもほんとうはそのほんとうさの根拠を持たないからです。

だからまた、

「人間にとっての経験は人間にとっての全倫理に応答しなければ

ならない」のです。


倫理と人間的経験が同時的であるのであれば

それらは実際にはどのように体感されるのでしょうか。

ぼくはそのことについて以前このように書きました。


「人間であるとはすでに人間であるということである」


「人間である」、言い換えれば「「人間ではない」ではない」状態に

移行してしまっているという人間の基本的条件が「ただ生きる」ことを

許さないのです。

そして、「如何に生くべきか」という問いは「倫理」とそこからの逸脱という

図式の上にしか成立しません。

人間が「まず」考えることができるのは、次の問いです。


なんだか気がついたら自分は、自ら働きかけたわけでもないのに

「他者との共生」というありえない奇跡的な状況に浴しているけれど、

どうやったらこれは維持できるのだろうか。


今これを「大人の問い」と名づけましょう。

それは受け取った贈与に対する返礼の義務感です。


そしてこの「返礼の義務感」、「私を私ならしめたもの、私の自由の源泉

こそが他者である」という、あるいは「これは私への贈与である」という

「意味を思わず読み取ってしまうこと」こそが「倫理」なのです。


したがって信用の構造は、人間の自由は、「どうもありがとう」という

やさしい言葉に帰着されるのです。


□メロスとセリヌンティウスと葉蔵の「信用の構造」

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10636769510.html


倫理も人間(の欲望)も、うっかり、常にすでに到来していると

思い為してしまったときに始まります。


「倫理はない」「人間はない」

それがほんとうです。

けれども倫理とはなんだろう、人間とはなんだろうという問いは、

つまり今回のこの議論は、外部にはじめからあるのではなく、

まさにこの人間的経験の内部からはじまっています。


だからぼくたちは

「「人間はない」のにある、「倫理はない」のにある」

という、ねじれてけしてとけることのない問いを生きる

他にないのです。