ぼくがぼくではないかのように生きるということ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

いま、ぼくは正直に言って、自分の存在と社会との紐帯がほとんど

切れ掛かっているのを感じます。

一切がもう果てしなくどうでもよいことのように思われてならない。


と、ぼくはまず、この「どこにもいけない感じ」から始める他ありません。


次に、2010年という時代の必然として、同時に「再帰」を俎上に載せ

なければなりません。

先行する世代に対する応答を引き受けなければぼくが何かぶつぶつ

言ったところでそれは聞き届けられることがないからです。


聞き届けられなくても構わないから応答なんて七面倒なことは御免だ

という人間は、ついにほんとうに聞き届けられなくちゃいけないような

一回的なことばを発することがありません。


それがほんとうに聞き届けられなくちゃいけないことばであるのならば

その人はほんとうに聞き届けられるように最善を尽くすだろうし、

最善を尽くされたそのことばは聞き届けられてしまうことでしょう。


また、同時に、「ほんとうに聞き届けられるべきことば」であることを

予めぼく自身がわかっているならば、ぼくは「聞き届けられるように最善を

尽くす」ことを通して、それが「ほんとうに聞き届けられるべきことば」

であることを必死に他に証明しようとふるまう動機も失われるように

思えます。

そうしたとき、そのことばはしばしば聞き届けられないでしょう。

聞き届けられなかったとき、ぼくはそのことばがほんとうは「ほんとうに

聞き届けられるべきことば」ではなかったんじゃなかろうか、と考えを

改めることと思います。

したがって、ほんとうに聞き届けられることばは発することをためらわれ

ながら、状況の中で必死にもがきながら、明滅しながら現れてくるのだと

いうことです。


戻りましょう。


上のすかすかな気分について考えると、まずはその語り口の定型性に

うんざりさせられます。


近くから遠くへの衝動(でも要は「隣の芝生は青い」)。


恐らく現在のぼくの最大の難点あるいは「いまぼくがかかえるもうやん

なっちゃうなってもののリスト(60年代的センス)」の第一項は、

社会的な経験が浅い為に身体への十分な信頼がまだきちんと構築されて

いないことだろうと思います。

つまり、語る言葉に重みがないこと、目の前のうんざりするものからとにかく

離れたくってとっさにとびついてしまう浮き足立った極端嗜好、

若さそのもののアポリアです。


ぼくはぼく自身のふるまいにいくらでも多く意識を向けなければ

なりません。

そして、まずは論者としての己の立ち位置を表明しなければならない。


「若さの克服に時間がかかった」とは奇しくも?小沢一郎さんの言葉

ですが、ぼくにおいて立場についての責任とはまず「若さの克服」が

問題となるでしょう。

ここでさっそく議論がループします。

ぼくはまるでうんざりしている、直ちにこれをなんとかしたい。

でも、うんざりを乗り越えるには「若さの克服」、すなわち時=解きが

必要です。

小沢さんは若さの克服は時間がかかるときとかからないときがあると

考えているような語り口ですが、でもそうじゃありません。

若さのアポリアとは、「時はままならない」という素朴な真理です。


だから論理的にはぼくの取りうる態度は一つです。

ままならなさを生きるということ。


しかし、それは不可能だったのではないでしょうか。

ぼくの主張は「ぼくはまるでうんざりしている、直ちにこれをなんとか

したい」ということであって、つまりこれは「ままならなさをままならしめ

たいんですけど」という傲慢な問いだったからです。


問いの解決には二つの方法があります。

問いの条件を満たすこと、問いそのものを消滅させること。


今、問いの条件は満たされないことが分っています。

であれば、問いそのものを消滅させる他に解決の方法はありません。

この問いにおいてそれは、ぼくにはできないことをぼくがするということ

であり、すなわち「ぼくがぼくでなくなること」です。


ぼくがぼくでなくなるためにはどうするか。

なんか誰かさんと問いが逆立してるように見えますけれど、

(「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」)

たぶんあれも反語なんであって、自分自身で考え抜けば必ず

「ぼくがぼくでなくなるためにはどうするか」に到るだろうと思います。

自分を考えていくと共同幻想に突き当たるからです。


ぼくがぼくでなくなるためには、ぱっと思いつくところで一つ、と、

それ以外のやり方の二つがあります。


一つ目は到ってシンプルで自殺です。

けれどもぼくは自殺というのは真理への決定打になりえないと

信じています。

自分の先には共同幻想があると書きましたが、そうであれば、

自分を考えるには人間的手続きを踏まなければならず、

死については人間はその遠さに思いを致すこと以外になにも

できない、何ごとも知りえないからです。


ぼくがうんざりしつつ熱狂しているのは終ぞ

知との知への知による闘争です。

だから生の範囲でことはすすめられなければなりません。

「ぼくはただ人間にだけ仕える」というのは、それと同じようなことです。


ぼくがぼくではないかのように生きるということ。

それが問題です。