さて、じゃ、沈みゆくボートに乗り合わせてしまった不幸な人
(というよりも近い未来を予見する目を持たない鈍感な人)
はどうしたらいいんでしょうか。
「責任者出て来い」って怒鳴り散らすことですか?
まさか。
そうした未だかつてない危機的な状況に出くわした人間は
自分の近くにいる一番声の大きい奴に付いて行く傾向が
あります。
けれども、危機的状況にあってこのふるまいは致命的です。
声の大きさとその主張の内容の確かさとの間には何の
関係もないからです。
すでに危機に陥ったあとでは、頼るべき指針は自分の外には
何ひとつありません。
だって、それは「未だかつてない危機」です。
だからその解決法をすでに知っている人間なんてどこにも
いないのです。
じゃあどうしたらいいのか。
人間の歴史は贈与に始まりましたが、「贈与=コミュニケーション」
を起動するものは、未知の、訳のわからないものを自分に対する
贈り物として引き受ける「どうもありがとう」という言葉です。
だから、引き受けてしまった訳のわからないものを前にして、
「じゃあどうしたらいいんだろう」と問うのが人間なのだということです。
声が大きいだけの意見にぱっと飛びつかないために必要なのは
「この状況は未知であって既成の解決法は存在しない。
自分で「じゃあどうしよう」と考える他ないのだ」ということを認めること
です。
しかし、人間は放って置いたら見たくないものは見ないし聞きたくない
ものは聞きません。
「既成の解決法が一切存在しない未曾有の危機的状況」を進んで
見たい人はいないでしょう。ぼくだってイヤです。
だからぼくたちの先祖はそういう場合のために、子孫が見たくないものを
見ず聞きたくないものを聞かないことで滅んでしまわないように、
「決め事」を用意しました。
今回はそれは「喪の儀礼」です。
喪の儀礼は世界中にその習慣を持たない親族集団が一つもないこと
からも明らかなように人間にとって最も根源的な営為です。
人間は認めたくないものを認めない。
愛すべきものが死んでしまったとき、しばしば死んだという事実を
認めることができません。
「人間であるとはまだ人間であるということである」
けれどもいつかは死んだことを認めないと、どこかで生と死の間に
線引きをしないと、残った者は生きていかれません。
「死者はすでに死んだ死者である」
喪の儀礼とは、要約すればこのトートロジーなのです。
沈むボートの比喩で言えば、
「ボート=これまで自分が自明視し依存してきた対象」がすでに失効
していること、「ボートはもう沈みつつある」ことを認めなければ
ならない。
そして、ボートが沈んだ後は、それに代わる別のボートを待つのでは
なく、未だかつてない全然別のやり方をゼロから案出しなければ
いけない。
自分の手足で泳がないといけないのです。
絶対に沈むはずのないボートが沈んでしまうような訳のわからない
危機的状況を己の知的筋肉と知的肺活量によって泳ぎ抜く力。
それが知性であると、ぼくは思います。