「テレビジョン」は20世紀を代表するテクノロジーであり、
テレビ産業はその広範にわたる活動を通して一つの文化を
形成した非常に強力なムーブメントであったと思います。
では、それほどまでに大きかったテレビの力とは
なんであったのでしょうか。
ぼくはそれは、三つの要素で説明できると思います。
三つの要素とはすなわち、「権力」と「お金」と「社会的効用」です。
まず「権力」とはなんでしょうか。一番ピンとこないですよね。
権力とは「権威の実効力」のことです。
「権威」とは「なんだかよくわからないけれど自然と頭が下がる、
逆らえないもの」。
テレビにおける権威とは「日本国」です。
近代における国民国家こそは最も強力な共同幻想ですから
依拠すべき対象として申し分ないことでしょう。
テレビの権力とは、具体的には「放送免許」が規定する、少数の
テレビ局によるチャンネルの寡占です。
そして、次、「お金」です。
お金がなければ文化は愚か、事業もありません。
周知の通り、テレビは主にコマーシャルメッセージの広告料に
よってお金を稼いでいます。
(まあ不動産屋さんもありますけど)
テレビCM広告モデルが成立するには、チャンネルが寡占されて
いることと、ランダムな広告が効果を持つようにあらゆる人が
テレビを見ること、二つの条件が揃っていなければなりません。
この「あらゆる人がテレビを見ること」の表象が「お茶の間」です。
どうして人はテレビを観るのでしょうか。
もちろん、良質なコンテンツを無料で享受できるからです。
三つ目。お茶の間を生成するのが、「社会的効用」です。
だから「権力」と「お金」と「社会的効用」は三つで一つです。
「テレビCM広告モデル」と「お茶の間」が「放送免許」の正当性を、
「お茶の間」と「放送免許」が強力な「テレビCM広告モデル」を、
「放送免許」と「テレビCM広告モデル」が「お茶の間」という文化を
作り上げたのです。
「放送免許」「テレビCM広告モデル」「お茶の間」の三位一体こそが
「テレビ」である。
以上で、ぼくたちはそのことを確認することが出来ました。
そして、だからテレビを構成する三本柱が崩れると実際に表れている
テレビもまた衰退するというのがことの筋目というものです。
インターネットテクノロジーの登場が「きめ細やかな広告」を実現する
ことで広告戦略のモードが推移し、
オリジナル幻想とフェミニズムと下流志向が手に手を取り合って
「生の多様化」を促進することで家族制度の解体が進みお茶の間が
消滅し、
ネオリベラリズムの御旗の下に政府の合理化、民営化が推進されて
いく中で放送免許制度の見直しが検討されていくと、
テレビは死にます。
そして、今まさにテレビは死につつあるのです。