あー!
グルーヴィーな文体、クリスプな文体、
ジューシーでポーリーな文体…。
ええっなんだって?
無理を言ってくれるなよなよー。
とりあえず水を飲む。
うーんダメだよ。エンジンが焼けちゃってんな、こりゃ。
そうだよね。まあそういう手触りだと思うんだよね。
だってそうだろう。ごわごわしてるんだもんげ。
なんだろうなあ。ほら。そうでしょ。
そうりゃあそうだよねえ。
うん、たしかにそういうところがあるかも。
へい、へい。
グラッシャスグラッシャス、イェイ!
諸君、つまりだね、太陽が東から昇ろうが昇らなかろうが、
そんなことはどうでもよいことなのだよう!
そうだろ。それでなんになるってのさ。
いや、べつにぼくはね、違うんだよ。
そうじゃなくて、別に太陽が昇るとか昇らないとかそれが
問題じゃないんだということをこそ言いたいのではない
のだよ。
ぼくはね、そういうのってやんなっちゃうんだな。
だってそれってまずさ、「奇を衒ってる」って批判を
くぐり抜けることができないじゃないか。
いや、そうではないのだ。奇を衒ってるわけではないの
だよ。
そう言うに決まってるわな。
だって奇を衒っているという言葉は誰が聞いてもよくない
言葉であるからだよ。
なぜか。
それは「実ではない」ということだからだ。
真・善・美の価値から逃げることはできないだろうと
思われる。ぼくにはね。
それで、
あんまり簡単に予期できる批判にさえ「いや、そうじゃないんだ」
って返すのは筋が悪い。
ぼくに言わせりゃあもぐりだな。
「いや、そうじゃないんだ」なんて腰の浮いた挙動で「奇を衒ってる」
っていう犬も食わないストックフレーズに応答しなけりゃいけなく
なったら「お前はもう死んでいる」だろう。
「いや、そうじゃないんだ」なんて慌てふためくような奴は
家帰ってチューペットでも食ってろ。
恐らく、ぼくたちの問題は、
いや、えっと、いきなり世代論に突入するのだけれどね。
まずは「再帰性の高まり」にある。
日本文化が何かはよくわからないが、
とりあえずそのハイコンテクスチュアリティあるいは
「病的な落ち着きのなさ」は卑弥呼以来の伝統であると
思う。なぜ神でなく司祭なのか。
目配せ。
あるいは将棋に似ている、あるいは武道に似ている、
あるいはファッションに似ている、あるいはオタク文化に
似ているだろう。
ファッションの「暴き」は終わりではなく始まりなのだ。
王様が裸であるところにはじまる。
モヒカンに赤いハンチングに黒いトレンチコートに
だぶだぶのゴム長…?
チュー!チュー!