まずは簡単に死の意味について。
生と死の共犯関係あるいは自己生成性について
生と死とは二つで一つなのだと思います。
だってそうですよね。
経験的に考えても、死という契機があってはじめて、
生きるってなんだろうってことが主題化されてくる。
ぼくは、たぶん死は個のレベルで観察する限りその
意味を捉えることはできないだろうと思います。
生命は別に死ぬ必要ないはずです。
じゃあなんでわざわざ寿命なんて設定してみんな死ぬのか。
類として生きることを考えると、個の死は類の生の
寿命を永らえさせる方向に作用するのだと思います。
「個が死ぬのは類のためだ。」
ぼくは今のところこの説明に一番確かな手触りを
覚えます。
死にたくないということと死にたいということについて。
ぼくは、死とは常に「招かれざる客」であると思います。
だから人はいつも死にたくないにも関わらず、
ただ死ぬ。何の為に死ぬのかということはナンセンスだと
思います。
では死にたいから死ぬとされる「自殺者」はどうか。
ぼくは自殺というのはギャグだと思います。
ギャグとはあのギャグです。
一瞬の破裂音、空気を切り裂く違和、のっぺりとした空虚な笑い。
自殺とは人間の理性が自己自身を裏切ってしまう逆説であり、
それを戯画化した喜劇です。
なぜか。
人は死にたくて死ぬことは原理的にできないからです。
孔子は弟子の子路に死について問われ、こう答えました。
「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」
まだ生を十分に理解していないのに、どうして死について理解
できるだろうか。
死の最大の特質はその不可知性にこそあります。
生の内部にいるときはまだ死ではありません。
死の内部にいるときはもう生ではありません。
「生の全体」という鳥瞰図は死の中に視座を取らなければ
描きえず、死についての何ごとも生の内部からはうかがい知る
ことができません。
たしかに、他者の死ならば出会うことはできます。
けれども対象化された死は私にとってあまり切実では
ありません。
他者の死は死にあって死にはない。
死への生なら他者の死の中にありますが、それは限りなく死に
近い生であって、死ではありません。
あるいは自分自身の出来事であっても、臨死体験は死ではない。
むしろ臨死体験という物語こそ、その滑らかさにおいて最も
「生的」であるでしょう。
目的とは文字通り読めば、「目がける的」のことです。
的は的という感覚データとして認知されていなければ、
ぼくたちの主観には現象しません。
そして、ぼくたちは現象していないものを目的とすることは
できません。「知らないものは探さない」からです。
さて、以上から、
「人間は死にたくないときに死にたくないからこそ死ぬ」
ことがわかりました。
え、わからない?
だってほっといても喜んで死ぬなら寿命なんていらない
はずです。
死にたくないのに死ぬという葛藤が類としての生に資する
のです。
そうでしょ。
死にたくない、だから、死ぬ。
死にたいから死んだことになっている自殺者たちは、
だから本当は何かつまらないことの説得のために自らの
生(死ではない)を道具へと貶めてしまっているのだと思います。
ぼくたちはただ生についてだけ、その本当さを考えることが
できるし、触れることができる。
死については何かを確言しようとするのではなく、ただその遠さに
思いを致すだけに止めるべきだとぼくは思います。
「生に生まれ生に老い、生を病んで生に死ぬ」
生とはそういうことではないでしょうか。