「人間失格」と小説「太宰治」を読むと、太宰はメロスのように
素直で単純に正義や人間への信頼を持っている人ではない
ことがわかります。
「走れメロス」を初めて読んだ人はまず熱血漢のメロスに
感情移入するでしょう。
だいたい「スピード感溢れる爽快な文体」なのですから、
読者はメロスの心の中に呑みこまれてしまうのです。
しかし太宰は自分を、メロスではなくてむしろ王の方にこそ
重ねていたのではないでしょうか。
というのは、王が人間のことを信用できないことが「走れメロス」
の物語の発端だったからです。
恐らく太宰は「人間失格の葉蔵はもう一度人間を信用できるか」と
考えたくて「走れメロス」を書いたのだと思います。
では答えはどうでしょうか。
ぼくは、王はもう一度人間を信用することができたのだと思います。
メロスとセリヌンティウスの抱擁を見て、王が顔を赤らめたのは、
自分が人間不信に陥っていたことを恥じたのだと思います。
恥じているということは、その人はもう人間不信ではない
ということです。
しかし当のメロスも一度友人の信用を裏切りかけます。
メロスがセリヌンティウスの下に到達しなければ王の「回心」も
ありえないのですから、今やメロスにおける友人との信頼の
危機は王こと大庭葉蔵にとっての人間失格の危機なのです。
メロスの走り続けようという気持ちが揺らいだそのとき、
彼は友人が自分のことを信じてくれないのではないかと不安に
なっています。
自分が他人の信用を裏切ってしまいそうなことと、
他人が自分のことを信用してくれないかもしれないと疑わしく
思えることとは、それぞれが経時的に前後し、どちらかが
どちらかの原因であるのではなく、同時に、ひとつことの二側面
として現れてくる。
このことからわかるのは、人間が他人を信用しようとすることは
他人が「他人を信用し、自分も他人の信用を裏切らないようにする」
ことを信用することであり、その前段を踏まえてはじめて他人の
信用を裏切らないようにしようとする、というように入り組んだ構造
になっているのだということです。
人間は他人に信用されることを信用することで初めて他人を
信用することができ、また他人が自分を信用することができる
ようになるのだいうこと。
互いが互いを信用する人間集団の成立こそが同時に共同幻想の
開始に他なりませんが、それを為しえた根本の動因はすでに
時の彼方に喪われています。
人間にとって根源の問いは「どうやって他者と共生し始めるか」
ではないのです。
また、「他者と共生すべきか否か」でもありません。
「人間であるとはすでに人間であるということである」
「人間である」、言い換えれば「「人間ではない」ではない」状態に
移行してしまっているという人間の基本的条件が「ただ生きる」ことを
許さないのです。
そして、「如何に生くべきか」という問いは「倫理」とそこからの逸脱という
図式の上にしか成立しません。
人間が「まず」考えることができるのは、次の問いです。
なんだか気がついたら自分は、自ら働きかけたわけでもないのに
「他者との共生」というありえない奇跡的な状況に浴しているけれど、
どうやったらこれは維持できるのだろうか。
今これを「大人の問い」と名づけましょう。
それは受け取った贈与に対する返礼の義務感です。
そしてこの「返礼の義務感」、「私を私ならしめたもの、私の自由の源泉
こそが他者である」という、あるいは「これは私への贈与である」という
「意味を思わず読み取ってしまうこと」こそが「倫理」なのです。
したがって信用の構造は、人間の自由は、「どうもありがとう」という
やさしい言葉に帰着されるのです。