「けいおん!」とはなにか | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

劇の内容は、ゆるいボケとゆるいツッコミのだらけた応酬、

あるいは終わらない日常の肯定。

強いて言えばそれは「無-劇」です。

(だからぼくは日常系はむしろ量産型バラエティー番組の

系譜に列なるのではないかと思う。)

それにしても何も起きない穏やかな陽だまり。

それは視聴者の眼には快そのものの提示であるかのように

映ります。


快いとは意に適うということですが、主人公はひたすらだらだら

寝転がったりお茶を啜っているだけで、

世話焼きの妹や幼なじみが、

お金持ちのクラスメイトが、

隣家の優しいおばあちゃんが、

顧問の先生が、

あらゆる面倒を解消してくれるのです。


当人は時折、主人公であることを再確認しておけばいい。

例えば「最後の一歩を踏み出せない友人(そういう人が世の中には

たくさんいるのだ)の背を、ちょん、と押してやる」のです。


さて、しかしこうした役回りについては、「背を押してやる」から

その人が主人公になったのではなく、その人が主人公だったからこそ

友人は「ああ、わたしは他でもないこの人に背を押してもらったから、

勇気を持って挑戦し、ついに成功することが出来たのだ」

と考えています。

全ては「主人公は主人公である」という同語反復から始まって

いるのです。


先の再確認とはこの程度の意味です。


しかし、以上はどういうことなのでしょうか。


それは「何もしない」ことから「あらゆるもの」を得ている姿です。

それこそ「もっとも少ない代価で、もっとも価値のある商品を手に入れる

こと」を目標とする人間、すなわち「消費者」の理想的状態に

他なりません。


つまり「けいおん!」とは「消費者たれ」という端的なメッセージなのです。

このメッセージから、ぼくは三つの意味を引き出せると思います。

以下にそれを挙げていきます。


一つは「消費者たれ」とは「これはサブカルチャーではない」と

いうことです。


「消費者たれ」とは正に市場原理主義の標語です。
しかし、時代の趨勢たる市場原理主義は、今や体制の言葉では

なかったでしょうか(生権力)。


ここに来て「軽音」は、「重い音からの脱却」を止めました。

それはもうただの軽い音であって、伝統にいくらかでも抵抗

しようとする差異への意思を放棄してしまっているのです。


生かすものとの癒合、それが「軽音楽」ではない「けいおん!」

なのです。

だからタイトルは平仮名表記となっているのだと思います。

「けいおん!」は軽音楽ではない。

そこからは体制の護持しか導きえません。

けいおんはその見かけとは裏腹に、どのような意味においても

サブカルチャーではないのです。


二つ目は「消費者たれ」とは「これは萌えアニメではない」という

ことです(書いていてぼくもここが一番びっくりした)。


消費者はその性格上、「全知」のポジションに立とうとします

(商取引においては専門知をもっているかのようにふるまった方が

有利だから)。

「知らないものはない」、これが同時に消費者の難点です。

というのは芸術とは「触れること」だったからです。

触れるとは、それがなんであるかわからないものをプローブする

根源的な生の振る舞いです。


知れる者は芸術を解さない。触れる契機がないからです。


従って、「消費者たれ」とは「これは芸術ではない」ということです。
それは「芸術=思わず触れたくなるもの」ではない。

つまり通念とは反して、「けいおん!」は「萌えない」ということです。
(「萌え」は定義が無数にあると思うけれど、ここでは「自発的な

主観的感情の総称であり、古語「あはれ」とほぼ同義とする。)



最後、三つ目は「消費者たれ」とは「京アニは死なない」ということ

です。


消費者とは「もっとも少ない代価で、もっとも価値のある商品を

手に入れることを目標とする人間」でした。

従って「消費者たれ」とは「私を安く買い叩け」という命令(許可

ではない)です。
「安く買い叩いては商売にならないじゃないか」と疑問に思う

でしょうか。


その通りだと思います。


必要であれば商売として成立するぎりぎりのところで値段が

最適化されるし、商売として立ち行かなくなったらそれはいらない

ものだったことになる。

そういう考えが「市場原理主義」です。


市場に任せるということは、なくなるときにはなくなってもよい

ということであり、同時に、その商品だけはなくならないという

強い自負が必要になります。


そして、市場原理主義はテレビ産業と相容れません。

市場原理主義を取ればテレビ産業の衰退を甘受しなければ

ならないし、テレビ産業を取るのなら市場原理主義を唱えることは

できないのです。

市場かテレビか、それが問題であるということになります。


そして「けいおん!」とはもちろん市場を取るということでしたから、

テレビの衰退やむなしということになります。


だから、「けいおん!」とは「京アニは死なない」なのです。

この遂行的な発話には隠れた前段があります。

「テレビは死ぬけれど京アニ「は」死なない」


それをわざわざテレビアニメで満天下に宣言すること。

自他共に認める「強い京アニ」の誕生です。


「先鋭化した日常系」…ってなんだか形容矛盾のような

気もしますけれど、また別にそれを考えてみたいと思います。


…まあ「急進的保守」もおかしいんですけどね。