□太宰治「人間失格」02:あるいは人を愛するということ
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10630205712.html
んーとね。
これ書き始めたときはこんな結論に到達するとは
思ってなかったんだよねえ。
「人間であるとは人間失格であるということだ」
自分で言うのもなんだけど、けっこうすごくない?
これ言った人あんまりいないと思うんですよね。
この「暗くてめそめそじめじめじとじと」っていう第一印象は
大事にしよう。
一方で、最後の京橋の小さいバアのマダムのセリフ。
「神様みたいないいこでしたよ」
これは明らかに第一印象と対立する。
逆立って言っていいくらいだ。
□太宰治「人間失格」01
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10629820851.html
ぼくは先にこう書いた。
それで、普通に人間失格の感想書くと、
「人間失格の葉蔵(低劣)/普通の人(高等)」っていう
図式を立てて、
「葉蔵はかわいそう、これはトラジディだ」っていう感想か、
あるいは、
「あれはあれで、もっとうまくやっていたら幸せになれた
だろうに」みたいなものが出てくる。
反対に、この図式を転倒させて、
「人間失格の葉蔵(高等)/普通の人(低劣)」とする。
それで、「人間失格」という葉蔵の言葉は、「本当は」
他の全ての人間にぶつけられた呪いの言葉なんだ、
なんていう「陳腐で一面的な(!)」ぼくにはつまらない
「深い」感想が提出されたりする。
バカだねえ。
主人と奴隷の語らい、というものがある。
鞭打つ主人と鞭打たれる奴隷は、しばしば立場が
入れ替わって、どっちがどっちだったかわからなくなる。
鞭打ってやっているのか、あるいは鞭打たせてやっている
のか。
葉蔵と一般の人が、どっちがより優れているか、という問い
を立てたら、もう袋小路だよ。
問いの立て方が間違ってるね。
葉蔵自身による「人間失格」という言葉と、
マダムの「神様みたいないいこでしたよ」という言葉と、
一見対立するようだけれど本当はどちらも正しいのであると
すれば、それは論理の経済が必然的に、
「人間であるとは人間失格であるということだ」という結論を
要求するだろう。
最も根源的な種類の真理はしばしば矛盾を含みこんでいる
ものだ。
あ、ちなみに、無垢さと愛は無関係ですよ。