ごきげんなひび | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

あれあれ?

アイスティーを飲み干してベッカーズを出てエスカレーターを

下って本屋の店内をくるっと一周してユニクロの前を通り過ぎた

あたりで面白いことを思いついたはずだったのだけれど、

ぜんぜん思い出せない。


なんだっけ?


まあいい。


ここでは書きたいことを書く、そう決めている。

もちろん、それは予めきみにかくかくしかじかのことを説得しよう

なんて計画を立てているって訳じゃないんだよね。

ぼくは技師では決してない。

ただ「こんなはなしを思いついてしまった」と思ったら、それを

言わないわけにはいかないんだってこと。

というのは、それはそれで個人的な文脈というものがあって、

以前も書いたことがあったりする、ということを書いたことも

あったっけ。


つまりね、簡単に言えば「陽気なおしゃべりごっこ」を、

ひとつの戦術として演らないわけにはいかないんだってこと。

それはぼくの好むと否にかかわらずね。


だってそうでしょう?

ありあわせでなんとかやるってのが、まだいくぶんマシな

別のクールネス、ってんだからさ。


そのね、ぼくだってこんな文体、クソ喰らえって思ってるのよ。


だけど人間ってのはだね、乗ってる舟が沈みかかると、

向こうからやってきたさもありなんという「迎えに来る解釈」に

飛びついちゃうような生き物なんだよね。


そういう奴らをごまんと見てきたからね、えーとそうだな、

そんなことをすると思うと「舌噛んで死んじゃいたい気分」になる

わけ。(たしかにベンリね。いくぶん伝わるしね。)


基本的にはやっぱり、(特殊)体系を演るか否か、という問いに

帰着すると思う。


というのは、人間ってのは自然からの疎外だったから。

主体とは(ここで言うのはやや微妙だけど)、病に生きることであり、

また、生きるという病だったからだ。


「演るか降りるか、それが問題だ。」


まずぼくが思ったのは、人間なんてやめてやれっていうこと。

ニーチェからポモへ。あるある(要は共感しろっていうこと)。


でもそう甘くないじゃない?


「やあやあ、あなたにも意味の祝福を!」


頼むからほっといてくれ!

向こうで演ってくれ!!


笑いを誘うおかしみ、絶句させ空気を断絶する「線」、

それこそ「意味の祝福」だよね。


誰もぼくのことを知らないところでありさえしたら、

だけどね、「自然」なるものへの憧憬が強ければ強いほど、

そんなもの、ほんとうなんてね、どこにもないんだってことが、

いやましてわかっちゃうわけ。

いや、わかるなんて野暮なことを言って悪かったね。

そうじゃない。

わかるとかわからないとか、そんなことはどうだっていい。


いよいよ、かなしくなってきちゃうんだよね、これがさ。


それがいわば哲学の根本動機であった、と、そりゃあぼくは

言うにちがいなかろう。そうはおもいませんか。


ああ、これこそまさに、まさに。

かねてぼくが演ろうとしていたことだったんです。


屈折してるけど、とりあえず殴っていいと思う。そんな奴さ。

余りにも人間的、って、まあここまで来るとむしろ、

くすっと笑ってしまう。そうして意味の祝福よ!


するとね、もうぼくの考えの枠組みを使う限り、うまく行かないわけ。

理解を絶した対象との調停、そこに第三項を差し挟まなくっちゃ

いけないんだね。


次点、体系を体系として、忘れなければいいんじゃないの。

演出の過剰さと差異の生成。

いよいよ人間的だ。

というのは、もち、差異への欲望だからね。


だからね、ぼくは人間にだけ仕えることにしたんだよ。


「ぼくはどうしたって街路に立つ人間たろうと考えたのだ!」


雪かき仕事みたいなこと、それで十分じゃないか、というよりも、

それだけなんだとおもうのだよね。


あとは悪い冗談としての愛と文化があってよい。

というか、ぼくはもともと、そういうの嫌いじゃない、とおもう。

たぶん。


愛の文化あるいは文化の愛。


というのはだね、今気づいたけど、「文/化」だったんだね。

そういうロマン主義みたいなもの、バカバカしくて結構好きかも。


ま、ここまでくると趣味に過ぎないけどね。