かつて物理学者のハイゼンベルクさんはすごいことに
気がついたのでした(まだそのすごさがよくわかんないけどさ)。
それは、電子の位置と速度は、どちらか一方しか
測定することができない、ということです。
電子の位置を測定するには、強い電磁波が必要です。
強い電磁波を電子に向けて照射し、跳ね返ってきた電磁波
の方向から、位置を割り出すことができる。
でも弱い電磁波ではうまく電子に照射されず、ぼやけてしまって
位置がよくわかりません。
一方、電子の速度を測定するには、弱い電磁波でないといけません。
電磁波が強すぎると、電子自体も吹き飛ばされてしまうからです。
つまり、電子の位置を測定しようとすると速度はわからないし、
速度を測定しようとすると今度は位置がわからないのです。
この話が教えるのは(つまりハイゼンベルクさんを出汁に
使おうっていうんだけどね)、
事実、というのは、冷徹で中立で無時間的な「所与」ではなく、
涙ぐましい実験観察という迂回路を経て、やっとぼくたちに
もたらされるのだということ。「認知には時間がかかる」。
また、事実とは、すでに「ありのままの世界存在」そのものでは
なく、誰かによる誰かのための誰かにとっての「認識された対象」
であるということです。
この「誰か」とは、一般に、その外在的な影響を受けることなく世界
そのもの、世界全体を把握しようと努めつつ、しかし世界に何かしらの
影響を及ぼすことによってのみその「把握」が可能な「いじらしい観察者」
のことです。それを「主体」といいます。
凡ゆる事実にはそれを自然から切断し分離させる「観察」という
主体による関与があります。
ぼくたちはここでそのことを確認しました。
* * *
さて、真に客観的な事実、ありのままの世界存在、すなわち「現実」
とは、ハイゼンベルクさんにとっての電子みたいなものだと思うんです。
それを捉えようとすると、指の間をするりと抜けて向こうへ遠ざかって
しまう。ぼくたちは真実をきっちりぴったりかっちり説明することは
できません。いつだって余計なことまで言い過ぎてしまうか、あるいは
言葉足らずで追いつかないかのどちらかでしかないのです。
だからぼくたちは現実や、また現実を知ることによってしかできないこと、
最終的、絶対的な状況の解決、なんてことには遂に到達することがない。
従って「現実とはもう/まだそこにはないもののことである」のです。
そのような根源的な不可能性は、主体と対象との分離と接触、「認知」
プロセスが、人間の基本的条件として予めビルトインされていることに
起因します。
ではどうして人間は「主体と対象との不一致」を課せられているの
でしょうか。
残念ながら、それは誰にもわかりません。
だって、「起源はもうない」のですから。
たしかに「主体と対象の不一致」は人間が現実に接触することを不可能
ならしめています。
しかしそのことは何かしらのあるべき人間性の欠損を意味しません。
むしろそれは、人間性という欠損なのです。
「認知は人間的自由を損ねる阻害因子ではなく、人間的自由の結果
である。」
人間は天地交歓(あるいは彼我一致)が不可能となることと引き換えに、
人間的自由、すなわち主体的コミットメントと(そのことがもたらす過剰な
利己性を抑制するための)社会を手に入れたのです。
そうした人間という業病こそが、ぼくたちにとっての、一つの確かな
手ざわりであるのだ、とだけ述べておきたいと思います。