「どこから話したものか」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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「どこから話したものか」


「こと」を語るの起こりには、ふたつある。

ひとつは、「こんな話を思いついた」。

もうひとつが、まさに「どこから話したものか」である。


ぼくがここ数年で得た最も重要な教訓のひとつが、

「そううまくいかない」ということである。


「どこから話したものか」ということばには、

今からひとつやってやろうという強い意気込みのようなものが

感じられる。

つまり、彼はきみのことを説得しようというのだ。


しかし、思想と現実との葛藤というものが、つねに付きまとう。

「どこから話したものか」とは、ひとつのベクトルである。

それは方向を持つ量なのだ。


「どこから話したものか」という言葉は、手段であって、

目的ではない。それは何かを伝えようというのだから、

伝えることができてはじめて、「よし」となるのであって、

ただ「どこから話したものか」と言ったからといって、それで

何になるというのだろうか。

そういう価値観である。


対して、「こんな話を思いついた」とはそうではない。

そこでは、ただ話すこと、それ自体が目的となっている。

厳密には、何かを伝えようということには重きが置かれていない

のであって、彼は糸をたどっていくように、流れに身を

任せるように、すらすらとそれを語るに違いない。


「こんな話を思いついた」

「どこから話したものか」


ぼくはどちらがすぐれていてどちらがおとっている、なんて

ことが言いたいんじゃない。

そんなことはどうでもよろしい。


ただ、ぼくは「どこから話したものか」ということの、根底的な

不可能性を、いささか気の毒に思うのである。


さて、では、どちらがより自由であろうか。


受動的だがすらすらと語れる「こんな話を思いついた」か?

それとも能動的だが最終的には挫折と沈黙とだけが待つ

「どこから話したものか」か?


いや、どうかな。まいっちゃうよね。