「狂者としての孔子」と「仁」 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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石川忠司さん、孔子の哲学を読了。


白川先生の「狂者としての孔子」、そこに「仁」を捉え直していく。

本書は最後まで「仁とは何か」を主題として書いているんだけど、

結局のところ「仁とは何か」が明らかにされない。

これと同じことを九鬼先生がしている。「粋/野暮」がそれである。


つまり、仁とは明晰判明でありながら、しかし同時に「結局なんの

こっちゃわからない」ようなものである、ということをその特質と

するのである。


ここでは、精一杯、「わかるけどわからないもの」としての仁を

考えてみようじゃないか。


仁は「礼」とときに協働し、ときに足を引っ張り合うという。

礼とは何か。

ぼくは礼を「常識」と読み替えることをためらわない。

たぶんそれでそこそこあってる。


常識は、固定化された「仁」であろう。

常識について、うまく手短に説明することは出来ない。

それが常識ということであることは、ぼくたちにとっては経験的に

明らかなことである。

…そうだよね?

だって常識の全体について記述するということはすなわち、

無限に続くとも思える数え上げのリストをつらつらと確認していく作業に

他ならないのだもの。


仁は極めて実践的な概念であって、教条的、数値的なものではない。

というのは、仁が「人間であること(及びそれを為すこと)」であるからだ。

教条であるとか数値というのは、「主体」に対置される「対象」である。

それは性質であって、存在ではない。


いいかい、対象とは主体から切り離されては自存できないんだ。

だって、それは「主体/対象」という二項対立における「体系内の位置価」

であるのだからね。

これは言ってみれば「共犯関係」である。

紅白戦がそうであるように、一方がなければ他方もないのだ。


そういうところにあって、仁とは、対象を成立させる前提としての、ないし

結果としての「主体」、その立ち上げに関わる概念なのだ。


言ってみればそれは「議論のための議論」に似ている。

話し合いで解決するのがよい、という「価値」は、議論に先立って存在して

いなければならない。


社会契約論者に習って、自然状態の万人の万人に対する闘争状態を

考えてみよう。


運動ダメでいけてないちょっぴりネクラなきみは、他者に出会う。

向こうはなにやらこっちをとって食うつもりらしい。

「うほうほ!」

「ええ、ちょっと待ってくれ!話せばわかる!!」

「うほうほうほうほ!」

「うわあああ」


話せばわかる、と、言葉で言うことがどれほどナンセンスであるか!


こういうような、例えば言語のないところから言語への、

決死の跳躍、その不断のプロセスこそが「仁」である。たぶん。

しかし、仁とは結果ではない。

それは性質に堕落してはいけないのだ。


ところで人間はつねに不完全か矛盾かを抱えており、その欠落を

エロスによるファンタジー(価値)が満たしている。

だが仁とは、その価値を明晰判明な形式として「釘付け」にし、これを

無力化する戦略ではないか。

そうであればそれはすぐれてラディカル(根源的)な実践である。


「釘付け」とはどういうことか。

仁は固着してはならないということだ。

仁とはかくかくしかしかである、と指示することの出来ない何かである。


また、仁は礼とひとつことである。

礼とは「人間であること(及びそれを為すこと)」のコンスタティブな

側面を指し、仁はそのパフォーマティブな側面を指す。

礼が仁を公共性、普遍性の方に引っ張る。また、あるいはきわめて

個人的な領域に駆り立てる。


以上のようなことを考えた。

だけど、ぼくにもよくわからなくなってきた…。

ただひとついえるのは、仁はあのインチキやろうどもをぶっとばすとき、

その価値の代替にあって、しかし同じことを貧しく繰り返すことを防いで

くれるはずだ。たぶん。

それというのは、何か決まったことをやろうというんじゃないからね。


仁とはなんでもあって、なんでもない。

不完全で、「かつ」、矛盾してるんじゃないかと思う。

だからすぐれて、人間的であり、非人間性として人間性を支えるような

「世界のねっこ」になりうるのではないだろうか。