アイドルって不能の王(宗教王)じゃないか、とぼくは考えた。
ここでは、不能の王の性質と実践について、さらにいくらか考える。
必敗の構造を知りつつ、敢えて引き受ける。
<不能の王>だと思います。
残った可能性として、部分的な正義、というのがあるとしたら
これですね。
虚の焦点として、ドクサに揺さぶりをかけることができます。
それ以上でも以下でもありません。
「人智の価値は僅少もしくは空無である」
□想像にまかせて
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10602023647.html
アイドルとは、「不変」への期待と、その裏切りによる幻滅の
一連の過程のことじゃないかと思います。
それで、一回だけの期待と幻滅ならいいんです。
ではさらに幻滅した後に、じゃあその代わりに、ということで別の
アイドルに期待したらどうなるか。
(例えば山口百恵から松田聖子へ。きみは疚しくなかったか?)
幻滅する為に期待する、及び期待するために幻滅する、ということに
なっていく。
その回転が加速して、ファン投票による得点づけまで導入されている
のが、あるいは幻滅と転移の舞台裏を見切れさせているのが、
AKB48ではないか。
そして、これって、資本主義と同構造ではありませんか?
投資のために稼ぐ。内容は省みられずに、持続の構造、構造の持続
それ自体が欲望される。
□AKB48における「資本主義の精神」
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10595494754.html
不能の王、宗教王って、たぶん「母」ですね。
分析的な意味での「母」とは単なる生物学的な母のことではありません
(生物学的な父が「母」である場合もある)。
「母」とは「他者の欲望」のことです。
んー、説明がむつかしい…。
「あなたが欲しいわ」がエロティックな言葉として響くように、
ぼくはただぼくだけがきみにとっての目的であって欲しいと思うことでしょう。
でも経験的に明らかなように、そうは行かないじゃないですか。
「んー、ごめん。またね。」ふられちゃうわけです。
「母」の欲望が、ぼくではない対象に向うとき、分析的にはそれが「父」と
呼ばれます。
「今すぐきみに会いたい!!」
「えー、だって今仕事中だし。」
この場合は「仕事」が「父」。
子どもは「母」にあれこれ注文をつけます。
「あれが欲しいこれが欲しい。」
はじめの内は「母」もそれを満たしてやるけれど、でもいつまでもそうは
いかないですよね。
そうだけれど、子どもは無理を言う。
それというのは、子どもがあれやこれが欲しいというとき、「それ」が欲しいの
ではないのです。
子どもは「けして与えられることのないもの」を求めているのです。
これを「要求」といいます。
「要求」は必ず実りません、というか要求は斥けられるまで続くんだからね。
斥けられたときはじめてそれを要求していたことになると言ったほうがよい
かもしれません。
ぼくは、アイドル/カリスマ=宗教王、不能の王とは、
「母」すなわち「他者の欲望」だと思うのです。
アイドルは叶えてくれるけれど叶えてくれない「母」である。
ファンによる「不変」の要求が斥けられるときに、ファンは己の欲望を
知って、それを別の対象に投影するんじゃないかな。
…なんか当たり前の話になったけどね。だからたぶんそこそこ正しいん
だろう。
んーそうすると「ドクサに揺さぶりをかける」というのは主体の立ち上げ
プロセスになってくるのか…。
何に使えそうか。たとえば、
三浦友和さんは百恵ちゃんファンにとって、分析的にも「父」だよね。
SMAP元メンバーの森くんは「出ていったお母さん」ってところか。
パスタを茹でてると森くんから電話かかってくる、とかね。
幻滅を予期して期待する、というとき、
そこでは個人はどこまで主体的自由を持ちうるか。
これは、スタンドプレーとしてはね、どこかで「あきらめ」がないと
いけないんだと思う。
不能の王は存在的身体でも技術でもなく記号的身体であるけれど、
その生き死には呪術的に理解される。
感覚はボールゲームに近いと思う。
例えば、野球でさ、フェアとファールってどうして前者は有効で、
後者は無効なのだろうか。
それはそういうものだから。そうだね?
フェアは「生きる」で、ファールは「死ぬ」。
スタンドプレーとしてのあきらめ、というのは、
サッカーで言えば、ドリブルでゴール前まで行って、そこで
ディフェンスに囲まれた場面を考えよう。
もう自分は呪術的には死んでいる。
ドリブルって、「ゴールが不可能であることの引き受け」の別名だと思う。
ドリブルはゴールする為ではなく相手のディフェンスを引き付ける
ためにこそある。
それはマス・フットボールの時代からそうであったはず。
だから、不能の王は、自分は死ぬかもしれないけど、そのときに、
パサーとして、類として生きる道が残る。
いや、「特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、
そのようなものとして死ぬべきものである。」
(『経済学と哲学とにかんする手稿』)
次の担い手、彼の下でも、何かしらのかたちで必ず
「ボール=命」は「ラインを割る=死ぬ」ことになるだろう。
不能の引き受け手すなわちキャッチャー!!
彼に渡せば(パスすれば)よい。
さいごにこの先の話。
「あきらめ」と「野生の思考」と「疎外論」と「アフォーダンス」は、
たぶんひとつらなりになるはず。直感だけどね。