まだぜんぜんわからない。
ただ、いくつかの行程を辿る必要があることは
なんとなくわかってきた。
マルクスの全思想を踏破するには大きく三つの
道がある。
これらはそれぞれがそれぞれに分かちがたく結びついて
いる、一つの核をもつ三つの側面である。
ひとつは自然哲学。
ひとつは法・国家・宗教。
ひとつは市民社会の構造である。
それぞれ現実、幻想、象徴に対応する。
中沢さんによれば。
ぼくは自然哲学を理解しようと試みる。
それは、彼の卒論での研究に見られるように
まずデモクリトスとエピクロスとの違いを理解しなければならない。
そこにフォイエルバッハの類的本質論を参照し、
それから「紙一重」展開したのがマルクスの自然哲学である。
マルクスはデモクリトスよりもエピクロスの認識論を選んだようだ。
たぶん。
デモクリトスは理性による認識の内に主観と客観とがある、と論じ、
エピクロスは感覚による主観的認識において、自然からの疎外が
すでに見られる、と云々…。たぶん。
すると、マルクスは客観認識の根源的不可能性を引き受けた、
ということか?それが「疎外」の第一の貌なのだろうか?
その「自然」が「現実」であるというなら、ぼくにはもうわかる。
それは「もうそこにはないもの」として、虚の中心として、
現実であるということだろう。
カントの「物自体」と同じものである。
フォイエルバッハのいう「類的本質」とは、なんだろうか。
それは人間の意識と、動物の本能との違いにみられる。
「全体への幻想」がその特質である。たぶん。
自然から幻想へ、そこに法・国家・宗教への道が続いている。
…とりあえず引き返そう。
残念ながら(今日はじめて思ったけど)デモクリトスの著作は
残っていない。
でも、誰かさんのおかげでエピクロスの言葉は残っているらしい。
岩波文庫に「エピクロス、教説と手紙」という一冊がある。
amazonに在庫はないものの、調べてみたら市川市の図書館には
あった。
気が向いたら読みたい。
じゃあフォイエルバッハはどうか。
wikipediaのフォイエルバッハさんの項目から引用する。
フォイエルバッハはかねてから、かつての師ヘーゲルの抽象的な精神・理念を主体として捉えて、その自己展開の過程によって歴史や自然・世界を見る考え方に疑問を抱いていた。これら抽象的な精神は元々人間の働きであるものなのに、ヘーゲル哲学では独立して考えられていると考え「人間の自己疎外」という表現で批判する。著述家になってからフォイエルバッハは、このヘーゲルの哲学批判を開始する。
おお!わかるよ、すげーその感じわかる!
竹田青嗣先生にはたぶん、「きみヘーゲル読めてないぜ」って怒られちゃう
と思うけど、まずはフォイエルバッハに乗ってみよう。
で、どれ読めばいいのかしら?
「キリスト教の本質」が主著、らしい。
そういえば文中出てきたような。
岩波文庫で、しかも上下巻かよ。そんなに読むのしんどいよ。
えーと、じゃあまた気が向いたらってことで。
まあ今はまだ中途半端な理解でもいいや。
読んでないけどアクセスできる初学者向けの参考書がたくさんあるし。
全部読んでもわかんなかったら真面目に読んでみよう。
そんなとこです。