ぼんやりとする。
どこまで考えたかしらん?
そうそう、芋虫。
ホールデンって、結局芋虫になりたかったんだよな。
いや、なりたいというか、そうじゃないかな。
社会システムの醜悪さっていうけど、まあそういうものだと
おもうんですよね。
否定は結構、対案の提出を要求します、なんてね。
官僚制はまだマシじゃないですか。
官僚制を否定するとしてね、何かカリスマのようなものが
担ぎ出されても、カリスマ-大衆っていう不平等の中にすでにして
「やがて実現されるべき未来社会」の不平等さを先駆的に
表現してるわけじゃないですか。
「一気に社会的公正を実現する」なんてできないんですよ。
一方で、官僚制は国家の表象としてある。
たまたま承認されている特殊政府って結局プライヴェートな
わけですよね。だから反対に、「表象」としての「官僚制」を
国家は必要とするわけです。
でも、そこには一枚薄皮がある。それは指摘しておきます。
で、疎外って、自己を立てる、というときに問題になってくると
思います。内部の本来性を外部に投げたときに問題になってくる、
たぶん。主体を主体たらしめるのは、他者の欲望です。
だから、類って言語なんですよ。
そう思うと、「口を噤んで」、「耳と目も閉じて」しまおうと言う
ホールデンは、言語ゲームから降りようというんだと思います。
いや、言わないんだけどね。
だから芋虫なんです。
カフカの方は、どうかな。何か関連があるかもしれませんが、ここでは
置きます。
ぼくが言ってるのは、乱歩の芋虫です。
芋虫においてもそうなんですが、お前、それさ、症状から「享楽」得てる
んじゃねーのか、と。
孤独だとか、義憤だとか、それ、「振り」じゃないのかよ、と。
パフォーマンスとしても、意味は読めるし、動いちゃうんですよね。
それが「意図せざる操り」であり、SACです。
「意図せざる操り」を意図的に!引き起こそうという方向がある。
まずはこれを否定します。そうじゃあねえだろう。
じゃあ可能なのは何か。
必敗の構造を知りつつ、敢えて引き受ける。
<不能の王>だと思います。
残った可能性として、部分的な正義、というのがあるとしたら
これですね。
虚の焦点として、ドクサに揺さぶりをかけることができます。
それ以上でも以下でもありません。
「人智の価値は僅少もしくは空無である」
ぼくはそれでも、ソクラテスを肯定したいです。
否定神学、まあ趣味ですね。
そいで芋虫に戻りますが、
ここに、竹内まりやのSeptemberを接続すると、
見えてきました。
「私ひとりが傷つくことが残されたやさしさね」
うん。やっぱりね、愛なんじゃねえかと。
母子の関係からしてすでにそうで、
「人間は愛において時を知る」のではないか、と。
あ、ぼくも検索しましたが、まだこう言った人はいません。
たぶん。
うーん、やっぱり社会的な価値って、どこまでいっても相対的な
ものなんですよ。
不完全であるか、あるいは矛盾している。
「余りにも人間的」ですよね。
科学と、芸術/宗教と対置して、科学の方が高級かといったら、
違う。
そうじゃなくて、科学って、揺れのことです。
価値は特殊な評価軸の内部にしか存在しませんが、どの評価軸
を選ぶべきかという価値もまた、それを包含する価値軸の、
「特殊体系内の位置価」でしかありません。
これはホムンクルス問題と同型で、無限後退します。
それが「社会的な価値って、どこまでいっても相対的」であり、
「人智の価値は僅少もしくは空無である」であるわけです。
科学の態度ってどういうことかというと、過程としての自己同定です。
「終らない努力」を引き受ける大人を、演じ続ること。
対して、宗教について、信仰者と無信仰者との葛藤がありますが、
そういう、価値まで含んだ知の在り方、は、親鸞が一番考えたんじゃ
ないかと思いますが、結局、知を捨てる、というところまで行く。
ホールデンの道のりは、まだ往路、それもまた途中で挫折、でしか
ありません。
「非僧」ということ。
学校なんかやめちまえよ、というのはそういうこと。
学校って、本当は科学の場ですけど、「生活」が被ってますよね。
寮があるっていうのはその表象だと思うんだけど、そうすると
どうしても価値が入ってくる。
そこがあって、あと半分は「非俗」。
インチキに満ちていて、やってらんないよ。
クリスマスに雪のニューヨークを彷徨してるのはそういうことです。
ホールデンにできなかったのは、留まる、ということなんです。
逃げる、ということ、あるいは知の、力のシニフィアンを追う、という
こと、ホールデンは両方やってます。
後者がキャッチャー・イン・ザ・ライ。
一応「職業」であることを想起しておきましょう。
「尚も」市民社会による抵抗の拠点となりうるかもしれません。
最終的には、フィービーに呼び止められて、ホールデンは残ります。
そのあと、どうもサナトリアムみたいなところに入っている。
ホールデンが留まる、ということをできるかどうかは、これからです。
街に帰った後、どうしようもなさに耐えつつ、生きていく。
それが大人ということです。
「大義のために卑しく生きる。」
道はそれだけです。
あ、それと。人生に飽きない為に必要なのは、
愛であり、時です。
ま、そういうもんです。大人になればわかります。