ええい、なんだか脳が焼けそうだ。
自分では勉強なんてろくにしないものの、
人には付き合う。
いや、当たり前のことを言ってるよね。
授業は聞くよね、みたいなさ。
そうでもない?
つまらない授業があったら、その時間には
関係する図書を読めばいいという話があった。
ただ、教室にはいたほうが良い。
なんとなくBGMとして教授の声。
授業が終ったら、わからない箇所を教授に質問する。
授業?つまらないから聞いてなかったです。
そんなことよりもこれ、教えてくださいよ。
だって大学は学問の府なんでしょ?
ただ好奇心にのみ仕えるって、貴方、学長が仰って
いたではあーりませんか。
それとも何か。学長と袂を分かつということでしょうか。
でも、まあそんなこともしない。
だってさ?
照れるっつーの!
*
素の語りを意識してみる。
つーか、意識してたらぜんぜん自然じゃないっしょ、みたいな。
いや、真面目な話さ、僕はどう話してたっけか。
実際に面と向って話すときは、ある程度の硬さ、あるいはやわらかさ
があって。
こんな感じだったと思うんだけど。
そうでもなかったような。
ほら、こういうのって、ない、ない、と言ってるときに、ふと、
話が途切れた間隙にすっと入り込むようなものだからさ。
ないけどあるし、あるけどないのだと思うね。
*
マーク・トウェインの「人間とは何か」について。
トウェインが展開する「人間機械論」って、親鸞の
他力説と同じものじゃないかということ。
聖人唯円に曰く、
「俺の言葉を信じるなら、そこら辺の人間を千人殺してみなよ。
往生できるぜ。」
唯円答えて曰く、
「ええ、無理っすよ。特に興味もない人は一人も殺せないです。」
聖人「ほらさ、何かをしようとするとき、そいつには何かしらの契機、
ってもんがあるわけだよな。行動の水準は、善悪とは関係のない
ところにあるんじゃねえか。契機があればやるし、なければやりたく
てもできないところがある。どうだ?」
*
またおんなじ話をするとおもうんだけども。
行動の水準を含んだ、政治的主張はどうありうべきか、と考える。
二元的思考だと、どうも狡い奴が出てくるし、果てしない不毛さを
覚える。
じゃあ、三元即一元にすればどうか。
三位一体説の再編、あるいはボロメオの輪。
三項の別とは、すなわち「思想/生活/身体」である。
それぞれ順に「政治的生」、「生活的生」、「生命的生」に対応する。
思想と生活はホンネとタテマエ、あるいはタテマエとホンネ。
(どっちがどっちかわからないです…)
で、主張の暴力を瀬戸際で停止させる安全バーとして、
やはり身体。
自立の拠点は尚も身体しかありえないと考えます。
身体的快は、脳的快と一致しないと思うんです。
オタクと武道家を分かつ線はそこにある。
規範の無視ではなく、むしろ「型」を引き受けること。
「抑圧がなければ表現もない」
型というものがある。型とは、ときに「ファッション」でもありうる。
ここに架橋、連帯を見るね、ぼくは。
きちっとしたファッションでありながら、しかし同時に身体的快を
保証することができるか。
デザイナーなめたらアカン!
…とは言うものの、ファッションは不案内でして。
勉強しないといけないなあ。
助けて、わかる人!
*
自立と勉強について。
独立自律を唱えて、まずぼくが行ったのは、
偏差的思考を放棄することであった。
閉じた局所的体系内の位置価を以って、知性の度量衡とはしない。
知性とはすなわち、何を知らないかを知ることである。
強迫神経症的に、自律と社会的努力とが相矛盾するものとセット
したことが完全に誤りであった。いや、もちろん、ぼくはそこから大きな
享楽を得てきたわけだけれどね。
しかし、ぼくはそうすることによって、つまり何が言いたいんだろうか。
…「勉強」ねえ。