テクノロジーは文化へ向う | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

テクノロジーの発展は、どこかで個人の夢と繋がっています。


素朴に、高度経済成長期の日本の子ども達にとって、

「来るべき未来の技術」とは都市の風景であり、宇宙開発だった

じゃないですか。


ぼくの中では、宇宙と深海は、何か同じことのように捉えられて

いますけれど、自然の開発、あらゆる空間を地図に載せよう、

網羅しようっていうような欲動は、「エコ」によって頓挫させられた、

あるいは「醒め」ちゃったんじゃないか。


それで、確かに「成長主義」とかね、マルクスかぶれの「普遍的

発展史観」ってのは、そのままじゃもうちょっと耐えられないだろう

と思うんです。


エコへの応答、ひとつには「教条的整合」をとって、あとは

なんですかね、転向ではなくね、「身体」の変成を試みる。

それが必要だろうと思います。

それで、じゃあエコってなんなのか、と思って。

ぼくは「意味は風景に内在しない」と常々申しておりますが、

じゃあ風景ってなんなのか。

「場の絶対性」というのがありましたが、それとの関係をどう

説明するのか。


さあ、よくわからない。

それで「アフォーダンス」というのが何か教えてくれないかと

思って、本を借りてきました。


で、戻りますが、個人の夢はどこに向うのか。

それが文化じゃないかと思います。

念頭にあるのは「サッカー」なんですけど、ワールドカップの誘致

ってやってますよね。

そこに高い技術力を主張する、というのがあって、

あ、これじゃないかと。


必ずしも「成長」じゃないんですよね。文化ですから。

何か、類型としての文化なら、すでに紀元前に大方提出されちゃってる

と思うんですよね。

じゃあ意味がないのかといったら、そういうことじゃない。

文化の意味は意味の文化なんだと思います。

(あ、ちなみにこの言い方はラカンに学びました。)


意味ってのは、発展はしない。

常にすでに、逃げていくもの、裏切りにありますよね。

その流動性は、はじまりとおわりを消し去ってしまいます。


だから、テクノロジーが文化とあれば、末永く仲良くやっていけると

思いますね。