「イケメン」とはなんでもないことによって反って気になって仕方のないものなのだ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

本稿は以下の記事の続きです。

おヒマならぜひ読んでね。


□どうして君はイケメンになれないのか?

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10527913234.html


□ぼくはきみに話してるんだぜ。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10539493122.html


□イケメンというのはよくわからない。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10540156821.html


* * *


ぼくはこう書いた。


みんながあれやこれややかましく言うから、

イケメンとはなんなのか、よくわからなくなったのではなく、

イケメンとはなんなのか、よくわからないから、

みんながあれやこれややかましく言うんだってこと。


イケメンという言葉の持つあの「重力」は、

「それがなにかよくわからない」という性質によって

もたらされたものではないか。


それで、あれから考えて、とりあえずぼくの現在もつ知では

ここまでが限界、というような指摘を以って今回はとりあえず

おしまいとしたい。


イケメンとは、「もうそこにはない力を指すシニフィアン」である。

(シニフィアンとは「あ、みなさん、これが「それ」です」っていう

「指し示すもの」のこと。プラカードもちのバイトを想起されたい)


学術的にはそれは「浮遊するシニフィアン」と呼ばれるらしい。


「浮遊するシニフィアン」とは「意味が空虚であり、それゆえに、

いかなる意味をも受け入れ可能で、その唯一無比の機能は、

シニフィアンとシニフィエの間の懸隔を埋めることである」ような

力の「正体」である。

それは例えば、「ゼロ記号」であり、「貨幣」である。



貨幣について。


貨幣の使用価値は限りなくゼロに近い。

ではなぜ、そのような限りなく無価値なものがあれだけの力を

持ちうるのか。


ここでぼくたちは「経済的価値」ということの意味を見直さなければ

ならないだろう。


「経済的価値」とは、「「つぎの交換へ」という心理的圧力の強度」

のことである。

「交易を動機づけるのは交換されたものの等価性でもないし、

不等価性でもない。交換されたものの計量不可能性である。」


貨幣が価値を持ちうるのは、こういうことである。

交換されるものが無価値であればあるほど「これは一体どういう

ことに使うのかしら」という疑問に答えようという欲望は加速する。


「それがなんであるかよくわからないから気になって仕方がない」

「イケメン」も同じである。


だから、こう言ってもよい。

「イケメンとは、貨幣である。」


「実物の貨幣こそがヴァーチャルでその概念の方がリアルである」

実物のイケメンこそがヴァーチャルでその概念の方がリアルなのである。


さて、どうして「高学歴」「高収入」「イケメン」がモテルのか。

それはたぶん、「貨幣」と「イケメン」と「学歴」は機能的には同じものだから

である。

また、どうして「貨幣」と「イケメン」、「貨幣」と「学歴」、「イケメン」と「学歴」

が交換できるのか、という問いも明らかになった。

(それぞれ、「水商売/美容整形」、「就職優位/裏口入学」、「イケメンにして

はわりと…/学歴にしてはわりと…」である。)


どうだろうか。


今日の話は昨日のつづき、今日のつづきはまた明日。

これにておしまい。