どうして君はイケメンになれないのか? | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ここでは「イケメン」及び「どうして君はイケメンになれないのか?」に

ついて考えたいと思います。

以下、ここでいわれる「イケメン」とは「イケてるメンズ」の略ではなく

「イケメン的なもの」を広く(また曖昧に)指すものとし、

性別には関わりなく適用できることとします。



突然だけど、きみに質問。

「きみはイケメンになりたいよね?」


え、思ってないの。でも魔法か何かでイケメンになれるのだとしたら

断りはしないよね。整形手術を受けようとまでは思わないけれど、魔法で

ぼんやりとイケメンになれるんだったら、断りはしないんじゃないだろうか。

それとも素直なきみは「イケメンになりたいなんて当たり前じゃないか」と

言うかな。

じゃあ、何でイケメンになりたくない訳がないんだろう?

きみは疑問に思ったことがなかっただろうか。

どうしてイケメンになりたくない人間がどこにもいないようなのだろうって。


きみもきっと「十人十色」という言葉を知っているはずだ。すなわち、人間の

価値観というのは多様であっていいし、どれが正しくてどれが間違っている

なんていうことはないんだ、と教える言葉だ。


ではイケメンという価値はどうか。

自分がイケメンじゃないかもしれないと思っている人間はたくさんいるけれど

イケメンになりたくない人間というのは、ぼくは寡聞にして知らない。

一般に観念される「イケメン」というのはね、誰にも否定しようのない、

最高の価値とされているはずだ。

ただ端的に「よい」もの、「正しい」もの、「美しい」もの、それがイケメン。


だけど、これこそがぼくの最大の疑問なんだよな。

ぼくはすでに「十人十色」という言葉を知っている。ぼくは「誰も否定しない

最高の価値」なんてないんだ、と教わっているからね。


イケメンは「誰も否定しない最高の価値」、そして、十人十色というのは

「「誰も否定しない最高の価値」なんてない」ということ。

二つをあわせたらどうなるか。「イケメンなんていない」…???


じゃあ、みんながなりたいイケメンって一体なんなのだろう?


* * *


質問を変えよう。

「きみはイケメンになりたいようなのだけれど、それはどうしてだろうか。」


人間は世間を生きていく以上、何でもかんでもうまく行くなんてことはありえ

ない。身だしなみに注意し、よく気が利き、礼儀正しく、挨拶もはっきり、正直

で嘘をつくこともなく、友達や家族を大切にし、お年寄りには即座に席を譲る

きみにだって、たまには失敗のひとつくらいあるはずだ。

失敗のない人間…そんなことがあるとしたら、それはイケメンくらいのもの

だろう。


きみは悔しかったり、傷ついたりしたときに、「畜生、あいつばかりいい思い

をしやがって!どうして自分だけこんな目に合うんだ」と思ったことはない

だろうか。

どこにだって、「何でもかんでもうまくこなす人間」の影がちらついている。

ほら、きみも見かけたことがあるだろう。そうそう、そいつそいつ。

そいつこそが正にぼくらが今考えている「イケメン」という奴なのだ。


イケメンはなんでもやってのける。そして人よりもうまくやって、その分だけ

少し余裕がある。そうだよね。

そして、その分の余裕だけまた新しいことに手を出して、そこでもそつなく

こなして見せる。そうやってどんどんどんどん先に進んでいく。


そういうのってずるいと思わないかい?

こっちはドロだらけになって、這いつくばって頑張っているのに、イケメンと

きたら汗一つかかずにおいしいところをかっさらっていく。

それで差がどんどん開いていく。新しいことに挑戦しようにも、スタート地点

が違うんだから、そんなのは勝てっこない、アンフェアじゃないか。

そう思うよね。


と、そうなると、どうしてイケメンになりたいのか、なんて愚問だよね。

そりゃあ誰だってイケメンになりたいさ。

イケメンにさえなれば、それまで「非-イケメン」として割を食っていた分が

みんな懐に入ってくるんだからね。

頑張っているのにうまくいかない、あれやこれやがみんな回復するだろう。

もちろん、そうすればおいしい思いができるに違いない。


イケメンにさえなれば、万事がうまくいく。

当たり前じゃないの。だからみんなイケメンになろうとしているわけだった。


* * *


次の質問。

「どうすればイケメンになれるのか?」


きみも友達に聞いてみるといい。「自分のどこがダメなのか?」ってね。

たぶん、ずばずば言う彼らならば、たくさん挙げてくれることと思う。

まあまあ、これから頑張ればいいんじゃない。


さて、ダメなところが見つかったならば、早速それを取り除いてみるといい。

どうだった?イケメンになれた?


うーん、そうか。まだ何かが足りないらしい。


きみは恐らく、イケメンになる為の「自己研鑽」、「女子力養育」、「自分磨き」

(呼び方はなんでもいいんだけど)に資源を惜しみなく投じてきた。

でも今のところイケメンになれていないよね。


それはどうしてだろう。ちゃんと考えた?

本当かなー。

たとえば今、「自分のどこがダメなのか?」って聞いたよね。

それはどうやって「イケメンになること」に繋がるんだろう?

バカを言うなって思うだろうか。

でも、きちんと考えると、「ダメなところ」と「イケメン」の間には

何の関係もないんだぜ。


説明しよう。

「どこがダメなのか」とはつまり、「非-イケメン的」なものとは何か」という

問いだ。

それは「贅肉」「肌荒れ」「腋臭」「低学歴」「低収入」「育ちの悪さ」「フケ」

「禿げ」「ニキビ」「全身ユニクロ」「ケチ」「無口」「運動音痴」「文学部」

「剛毛」「ケバイ」「陰口」「気が利かない」「ブランド欲」「メール遅い」

「煙草」「ギャンブル」「オタク」「メンドクサイキャラ」、とりあえずこれくらい

しか悪口を思いつかないけどさ、まあなんとなくダメそうなものは

いくらもある。


で、そんな「非-イケメン的なもの」と取り除いていったらどうなるのか。

「「非-イケメン」でない人間」に近づいていくことと思う。

しかし問題は、「「非-イケメン」でない人間」は「イケメン」と一致するのか

ということだ。


これは命題と対偶が一致するのか、という話なんだけど、

ここでは排中律が成立しないから一致しないんじゃないか、とぼくは

考える。

排中律というのは、AかAでないか、それで全部であってそれ以外は

考えられない、ということだ。

たとえば、友だちに電話をかけてみたときには相手が電話にでるか

でないか、そのどちらかであってそれ以外には考えられない。


では「イケメン」と「非-イケメン」についてはどうか。

「イケメン」と「非-イケメン」(つまりブサイクと言ってもいい)で全部なのか、

違うんじゃないの?

「イケメン」、「そこそこイケメン」、「ちょいイケメン」、「ややイケメン」、

「いくらかイケメン」、「まあイケメン」、「どちらかといえばイケメン」、「たぶん

イケメン」、「一応イケメン」、「え、イケメン?」、「いやー、イケメン??」、

「イケメンでこそないものの」、「イケメンとは別の仕方で」、「それはイケメン

ではない」、「イケメンなわけねーだろ」、「ブス」、と、量的な差異によって

無限のバリエーションを描いていると考えた方が、実状に近いと思う。

「ブス」でこそないものの「え、イケメン?」っているよね。


えーとなんだっけ。そうそう。「非-イケメン的でなくしていくこと」をして、

ぼくたちは「自分磨き」と呼んできたわけだけど、それじゃいつまでたっても

「イケメン」にはなれないんだってことだった。

「自分磨き」は「イケメン」とは何の関係もないんだぜ。

「イケメンになるために必要なこと」は「イケメンになるために必要なこと」

であって「非-イケメンでなくなるために必要なこと」ではない。

思い返してみれば、きみは「自分磨き」、すなわち「非-イケメンでなくなる

ために必要なこと」しかしてこなかった。だから、なんだよ。


断言しよう。


きみはイケメンにはなれない!!!


よし、これで本論考の目的は達せられた。ぼくはもう満足なんだけど。

まだ何か?


おうおう、そう泣くでない。

ありのままのきみで生きて行ったらいいじゃないか。他の人が笑おうが

きみがきみでいられたら、それで十分じゃないかい?

…イケメンにはなれないけど。


ああ、そうか。

「イケメンにさえなれば万事がうまくいく」、そう思ってきみはイケメン「だけ」

を頼みにしてやってきたんだったね。

まあ何か別のことを考えるより他、仕方がないな。


ここで質問を変えるしかないね。

「じゃあどうすればいいのか?」


でも、それはまた別の話だ。場所を変える必要がある。

本稿はここまで。