ご、ごめんなさいい!ぼくがまちがってましたあ!! | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ちなさんにコメントを頂いて、もう一度考え直す。



とりあえず考えたのは、それはたぶん、まずぼくが心のどこかで

「労働」ということが「卑しい」と思っているのではないか、という疑問。


労働はいつでもオーバーアチーブである、と内田先生に習って、

このテーゼには全く感心した。

そうか、格好いい、と思った。


しかし、一方で、何かの為に、手段として「よいこと」をしても、

ダメなんじゃあないかと思うところがある。

労働ということは、無償のボランティア(くどいが)とは違って、

それを通して何かしらの対価を得るということだ。

それが根底的に「卑しくはないか」、と考える。


いや、もちろん、なにかしら対価を得ないと「食えない」わけで、

あるし、ボランティアであっても「レスペクト」という対価を

目当てに、手段としてその行いに身を投じていくなら、

それはやはり「卑しい」のではないか、と、疑問に思った。


結論から言えば、これはまるで間違い。

こういう素朴な疑問を抱くのはぼくが青いからである。


たとえば、志賀直哉の「小僧の神様」では、

金がなくて寿司が食えなかった小僧に同情した貴族院の男が、

彼に寿司を奢ってたらふく食わせてやる。

「無償の贈与」に彼らが満足したか、というとどうも引っかかる

ものが残る。


「無償の贈与」ね。でも人生ってそういうふうにはできていない

のである。

まだうまく理解できていないものの、上のような「無垢な正義」は

たぶん無理なんだとおもう。


□てめーでかんがえるのだということ

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10578036802.html



たぶん「労働は卑しいのではないか」という疑問は、

その問いの立て方からして間違っている。

はじめから答えのない問いである、ような気がする。


この問いの遂行的な意味は、つまりこのように問うことによって

ぼくが本当は何を言いたいのか、といったら、

それは「よけいな仕事をしたくない」ということだと思う。


でも、人間の住む社会というのは、「わたしの仕事」と

「あなたの仕事」だけで成立しているわけではない。

そのほかに「誰の仕事でもないこと」が転がっている。

それはたしかに「ぼくの仕事」でも「あなたの仕事」でもない。

でも、誰かがやらないと、いつまでもそこに残り続ける仕事であって、

誰かがやらないと社会というものが回っていかない。


ぼくの問いは、ぼくがそうやって「卑しいのではないか」なんて

いいながら、自分も属している「社会を作っていく大人の仕事」を

ニグレクトしている自身の怠業を正当化するロジックとして機能して

いる。


こうしてぼくが「仕事なんて言って、結局それは利己的じゃないか?」

とか、あるいは「それってほんとうに生き生き?」とか、あるいはまた

「本当にやりたいことって「それ」じゃないんじゃないか?」なんて、

ぼさっとぶつぶつ言っている一方で、

「まあ、そうかもねー」なんてぼくの話にニコニコしながらせっせと

手を動かしている人がいる。


ぼくは先にこうも書いた。


そういう考えがあって、「正義」からそれよりもいくらか確かな、

手触りを感じる気がする「生活」の部分、

いわゆる「世の習い」であるとか、「おじさん的良識」の方向に、

ぼくの中での「正義」のポジションを代替する機能として「大人」

を期待する。


期待、だって!?

これはまさに、ぼくが子どもであるということの強力な傍証である。


「大人」とは、「その到来を期待」するようなものじゃないんだ。

「大人」について語るということは、すでに「大人」として「社会を作って

いく大人の仕事」を担い、「誰の仕事でもないこと」を現在進行形で

処理している、行動の水準にある問題なんだ。


腹の底から味わえ。お前はどこにも行けない。

ここだけだ。ずっと、ここだけだ。


□つねにすでにそうであったのだったということになった、いや、

あるいはただそうだったという話

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10569352477.html


そうだ、ぼくは、とうに教わっていたじゃないか。


「弁証法的である」こととはそのように自分たちが対立している場そのもの

を俯瞰するような視座に(想像的に)同時に移行できるような知性の運動の

ことだと思いますが、そのためには自分が「舞台の上」にいて、ある演技を

しているにすぎないこと(場の相対性についての覚知)、そしてその演技を

全うするほかに「善きもの」を生み出す道がないこと(場の絶対性について

の覚知)を同時に引き受けていなくてはなりません。


□勇気ある知性

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10514123995.html


やれやれ!

ぼくの頭から「場の絶対性についての覚知」が完全に抜け落ちて

いたことを、ぼくは認めないといけない。


内田先生に、もうひとつ習った。

「気をつけよう、暗い言葉と甘い道」。

ぼくは果たして、暗い言葉を語ってはいなかったか。

黙って汗水たらして働く人の傍で、甘い道に流れてはいなかったか。


ちなさん、「報酬で動くのではなく、他人に認められる、ということが、

自身にとって価値が有るか、無いか、と、捉えたら、苦しまなくても

いいのかなって(^-^)」

報酬うんぬんがまずあるんじゃなくて、まず働いた「あと」、社会が

成立してくる、そうして他者からの承認であり、報酬も、やってくる。

その通りだと思います。


「甘ったれてるんじゃない!」って頬桁を張り飛ばされたような気分です。

目が覚めた。

ちなさん、ごめんなさい、どうもありがとう。


うん、頑張ります。

みなさん、どうぞよろしく。