ふと、こんな話を思いついた。
お風呂に入ったら、ぴーんと来た。
えーと、つまり、内田先生が「知性というのはだね、
「ふと、こんな話を思いついた」、というようなことなんだよ」
と仰っていたのを聞いて、それを呼び水に、たぶん
ぼくが呼ばれてしまったのだと思われる。
何の話か。
ぼくはこないだ、こう書いた。
「きみはほんとうは「それ」をしたいわけじゃないんじゃないの?」
□20年の「呪い」
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10557879779.html
これと、今ぼくが話そうとしていることが、直接つながって
いるか、ぼくにもすこし自信がない。
だけど気分は通底しているような気がする。
ぼくはなんとなく生きている。
ことのよしあしはともかく、まあ実際そうだろう。
そうしていると、時折、何かの拍子に、心がしーんと静まり返る
瞬間がある。
ふっと消えちゃいそうな感じがする。
それは構わない。つまり、とりあえず消えないだろうしね。
構わないが、ぼくにはどうも、それがどういうことなのか、
自分で考える義務があるような気がする。
とりあえず考えたのは、それはたぶん、まずぼくが心のどこかで
「労働」ということが「卑しい」と思っているのではないか、という疑問。
労働はいつでもオーバーアチーブである、と内田先生に習って、
このテーゼには全く感心した。
そうか、格好いい、と思った。
しかし、一方で、何かの為に、手段として「よいこと」をしても、
ダメなんじゃあないかと思うところがある。
労働ということは、無償のボランティア(くどいが)とは違って、
それを通して何かしらの対価を得るということだ。
それが根底的に「卑しくはないか」、と考える。
いや、もちろん、なにかしら対価を得ないと「食えない」わけで、
あるし、ボランティアであっても「レスペクト」という対価を
目当てに、手段としてその行いに身を投じていくなら、
それはやはり「卑しい」のではないか、と、疑問に思った。
結論から言えば、これはまるで間違い。
こういう素朴な疑問を抱くのはぼくが青いからである。
たとえば、志賀直哉の「小僧の神様」では、
金がなくて寿司が食えなかった小僧に同情した貴族院の男が、
彼に寿司を奢ってたらふく食わせてやる。
「無償の贈与」に彼らが満足したか、というとどうも引っかかる
ものが残る。
「無償の贈与」ね。でも人生ってそういうふうにはできていない
のである。
まだうまく理解できていないものの、上のような「無垢な正義」は
たぶん無理なんだとおもう。
そういう考えがあって、「正義」からそれよりもいくらか確かな、
手触りを感じる気がする「生活」の部分、
いわゆる「世の習い」であるとか、「おじさん的良識」の方向に、
ぼくの中での「正義」のポジションを代替する機能として「大人」
を期待する。
期待する、と、心穏やかな、ポジティブな、晴れ晴れとした
オプティミストのような口ぶりをしているけれど、実際には心中穏やか
ではない。
いかん、現に、書いていて切ない。
ぼくは、自分の思いを、テレビや巷の話題の「おちゃらけ」であるとか、
あるいは詩崩れのような散文の「必死さ」であるとか、
あるいは、なんだろう、Twitter上へのなんでもないような断片、
現実感=生活臭=「生き生き」としたリアリティであるとか…。
そういうようなものの総体に、ぼんやりと預けているような感じがある。
でも、どうか。
「本当の私」がうまく伝えられていない、だなんて言おうとは思わない
ものの、自分のつまらなさ、というような「自己卑下ごっこ」の用語を
使うと慰めの対価を要求してしまうので使えないんだけど、
うーん。
なんか、ちょっと違うかな、という感じ。
それはぬぐいきれない、んじゃないか。
結局のところ、倫理とは、知とは、先の「正義」以後の<正義>とは、
意味のなさに耐えるだけのタフネスのことではないか、という
気がする。
その大げさな説明を自粛すること、そこに「大人」の方向はあるような
予感がある。
切なさがあると書いたが、それはどこかに投げてはいけないと思う。
投げずに、なにかしらの「力」のシニフィアン(「あ、みなさん、これが
「それ」です」っていう「指し示すもの」のこと。プラカードもちのバイトを
想起されたい。)を呼び寄せることなく、ただじっとしているべきだ。
たとえば、ぼくはこう書いた。
「身体性は社会に係留されていないといけない」とぼくは考えているの
ですが、そのヒントをサッカーが教えてくれるんじゃないかと思ったので、
考えたのでした。
□デンマーク戦を終えてぼくの思うところ
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10574085739.html
ぼくがワールドカップというムーブメントに求めていたのは、結局のところ
「社会への係留索」の役割だったのではないか?
経験から言って、「身体は社会に係留されていなければならない」と
いうのは、何らかの意味で本当である。
あの「切なさ」を放っておくと、どうなるか。
「切なさ」の正体は恐らく「現在の私」への固着である。
その固着から、変化を拒もうとする強い抵抗が生じる。
変化しない為にはどうすべきか。
福岡さんによれば生命は動的平衡である。
「私」は無前提に実在するものではない。
絶えず移り変わっている生命、その「変化」の前段を俟って
「にもかかわらず」同一の「私」が発見される、という理路を辿る。
生命とは変化である。
「切なさ」の衝動の延長上にはたぶん「自殺」が待っている。
ぼくは、さすがにそこまでつまらない人間ではなかったと、
自分では信じている。
それに、ぼくは物理的な死に対してそんなに期待できない。
なぜなら、人生はただの生ではなかったからだ。
ぼくは「サッカーファンごっこ」も、いい加減やめたほうがいいのかも
しれない。あまり自信がない。
どうなんだろう、それって、「生き生き」なんだろうか。
<正義>なるものの予感はどのようなものとしてあるか。
ぼくは既存の「間接民主主義」について。
もう「信頼を圧倒的に回復する起死回生の成長戦略」みたいなものを、
求めようという気持ちが起こらない。
いいよ、もう、という気がする。ごめんね。
国民国家の理性、ようは「法」について、これは勉強が足りなくて、
よくわからない。「法」が宙に浮いたものであることは、ようやくわかった。
そして、宙に浮いていることを確認するところから話が始まっている
ことも。それは大したことじゃない。ここでも起源はない。
でも、どうなんだろう、今後「法」が何かはっとするような、クリスピーな
力を持ちうるだろうか。
むつかしいだろう。
いや、どうかな。国際的な法のヘゲモニー状況が訪れる?…まさか。
と、口を滑らせると勉強不足がロテイするので照れます。てへ。
あとは何だろう。ビジネス、財界と、あとなんでもない「街場」、「生活」
くらいかな。
そう考えてくるとはじめの方にループしてきます。
あとは道はふたつ。
何も考えない人間もどき=動物もどきになる道。
もうひとつは、ここで、切なさに耐えながらてめーで考える道。
ぼくは後者を選びたい。
ありがとう、もうちょっと頑張ってみます。