やっと「わかることについて」、
とりあえずまとまる。
ややこしいんだよ。ほんとにさ。
しかもいよいよ夏が近づいてる。
あついなあ、あついよね。
あついときあついけどあついかも。
ああ、あついよ。
あつい、あつい、といえば、
ワールドカップだよね。
ぼくもよくわかんないんだけどさ、
日本は応援してるよ。
いや、やっぱり弱小チームが大国を
打ち負かすのが楽しいのであって、
そう思うと舞台は整った、って感じだよね。
メッシ格好いいよね。
メッシの格好よさは、世界中、たくさんのライターさんが
これでもか、これでもかと言うほど書いていると
思うのだけれど、
ぼくが思うにその一つは、メッシという音にある。
これはたぶんまだ誰も書いていないだろう。
だって適当だからさ。うん。
メッシって「滅私」に通じる。
日本人にはなんとなくシンパシー。
がんばろうぜ、がんばろうぜ、かつぞ、かつぞ、
岡田ジャパン♪
んなこたあどうでもいいんだよ。
ぼくも時々、アメブロが提供しているブログのアクセス状況とか、
簡単な…なんつーんだっけ、アナリティクス、解析ね。
あれをざっと見るんだけれども。
人目が気になるお年頃なの。うっふん。
それで、なんかぼくのブログを遡って読んでくれてる
人がまたちらほらいらっしゃるみたいで。
ありがてえ。
こういうお客さんを、マーケ用語で…あれ、なんていうんだっけ?
十二人目のプレイヤー!ミスターアウトサイド。
ん、違うなあ。
それで、たぶんぼくのブログを遡って読むと、
いや、とは言っても一番最初に戻れと言ってるんじゃないよ、
ちょっと戻れ、と言ってるんだよ。
さすがに三年前の記述につっこまれても、こっちももう
「不可逆に変成」されちゃってるのでベタには受け取れない
んですけれども、まあいいけどね。
それで遡ってもらいますと、まあ稚拙とは言え、若干の
知的成熟の過程が見られることと思います。
ぼくもいくらかは大人になったなあと思います。
「私の青春葬送歌」とか、青臭くて鼻血ものですよね(きゅんきゅん☆
あれは半ば「中二病(もはや伊集院の術語ではない」「ごっこ」を
いくらかは意識してやってる部分があって、あとはホントの青さですね。
ぼくが心がけているのは、この時代、この地理的状況に立っていない人
に向けて語ることで、それは具体的には25年後の自分です。
まあ何歳でもいいんだけど、
村上春樹に「45歳問題」ってなかったっけ?
そんなような話を聞いて、おっさんになったときに直視できるものを
書こうと思います。
青臭くてもいいんだけど、どこかで「マジ」な部分、それはここでは
ある種の「公共性」というか、むしろ「共同性」というか、
プラトンにあった問題意識ですね、悪く言えば形而上学なんだけど、
そういうことを思ってる。
なんていうかな…。時代を超えてリーダブルな文章って可能だと
信じていて、ある種の「脱臭」というか、
ぼくは先行世代、吉本隆明に向って、内田樹に向って、
あるいは、未来のぼく自身、心身ともに完全におっさんと化したぼくに
向って、そして、まだ生まれてさえいない「きみ」に向って、
語っているつもりです。
こんなもん読んでるとは思わないんだけど、でも、ほら、きみって、
変わり者じゃない?
だからこうしてよんでいたりする。…バーカ!
こういうマジレスって、ぼくは気が向かないと書かないところがある。
しかも、気が向くことってまずない。
実際、ここのところ、このブログではぜんぜん見られない。
いや、あの芝居がかった「詩くずれ」みたいなものは、部分的には
本当に考えたことがこもっている。
でも、こういう「覚め」みたいなのって、久しくなかった。
前に書いたのっていうと、思いつくのは…。
さがすの大変なんだけども…。
あったあった。
□素地
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10140133534.html
ぼくが覚えてるのはこれかなあという感じです。
まあ大したことは言ってなくて、
たぶんラカンの「一の線」ですね。
それで、もうやめにしますが、
ブログってのは結構非対称なところがあると思うんです。
ブログではある程度長く書くことが出来る。
ぶあっと一気呵成に書いて、そのリズムで以って
読者に向うことが出来る。
まずは作者、ととりあえず言いますが、が強い、とおもう。
そこで暴走みたいなことは出来る。
反社会的なこと、たとえばとくに差別的な、しかも周到な
言説と言うのが考えられる。
そこで、その暴走にひもをつけること、「叩く」、「炎上」とは
別のアプローチのようなものはできると思う。
具体的にはそれは「コテハン」かなあと。
だから、「覚め」みたいなこともあわせて、どんどんぼくから
引き出して欲しいという気持ちはあります。
それは、むしろ「自然」で「ぱっと思いついた」ことのほうが
より適しているんじゃないかと思います。
極端なことをいうと、コメントは本文をろくに読まなくても
いいと思うんです。
ぜんぜんケントウハズレでも、その隔絶を跳躍する想像力は、
ぼくであり、また他の読者に要求されるのではないか。
あわせて読むことができるような、「寛容な土台」を、提出すべき
は「周りのみんな」なのかな、ということを考えます。
なんか饒舌になっちまったよ。
ああ、あついなあ。おやすみ。