最近、Ghostに対する能動的なアプローチというのを
実践してます。
大したことじゃないんですけど、
たとえば、満員の総武線の黄色い電車を見送ったり、
たとえば、デポジット機(空き缶回収機)の缶の回収本数が
キリ番だったときにガッツポーズをしたり、
たとえば、ちょっとみっともないミスを犯したときに
誰も見ていないのにおどけて見せたり、ということです。
人は低きに流れる生き物なので、
それに抗う姿勢が肝要、ということですね。
うにゃうにゃ
僕の内側に、あるいは思考する主体としての意識から
非常に近い位置にGhostは存在する。
Ghostを考えるということは、
すなわち、Ghostの同一性を考えることに等しい。
Ghostは、言葉に対する意味と同じで、乱暴な言い方をすれば、
主体的な身体と、表裏一体ということになる。
Ghostを「無意識」という言葉にそのまま置き換える
ことはできないが、Ghostが「無意識」と同様に、それが帰属する
主体にとって、コントロール不可能であるという点は
同じである。
Ghostもまた流動的な、生きた「ナマモノ」であり、
固定化された情報として認識したり、管理することは
不可能である。
そういう意味で、僕がGhostを考えるとき、その同一性を
追いかけることになる、ということである。
これが僕の外側に存在するのなら、僕自身で、
僕が知る自分のGhostを常に確認していればいいのだが、
僕の内側にある以上はアイデンティティと同様、僕自身には
どうすることもできない。
僕ができるのは、他者からの承認によって、その同一性を
把握することだけである。
加えてGhostが厄介なのは、他者が外側から見ても、
その姿かたちが明瞭でない、ということである。
Ghostがアイデンティティの源であるのは間違いないが、
僕の、他者に対するインターフェースとしての身体上に
表れるのはGhost自身ではなく、Ghostの活動からの
フィードバックとしての、間接的な作用の発露だけなのだ。
これほどGhostがあやふやで、僕自身捉えどころのない
存在であるにも関わらず、僕がどうにかしてそれを認識
しようと躍起になるのには、理由がある。
先ほどの、僕のGhostに対する能動的なアプローチの
卑近な例の一つとして挙げたものの内にそのヒントがある。
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たとえば、ちょっとみっともないミスを犯したときに
誰も見ていないのにおどけて見せたり、ということです。
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これは、以前僕が書いた文章中でも別の形で
表れている、最近になって僕が獲得した独特の世界観である。
□さっく
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10124286975.html
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享楽主義、というのともちょっと違うな。
とにかく観客を思い描く。
別に自分自身は死んだって構いやしない。
底抜けにおもしろいことをやらかしてやろう!
これはライブなわけだよ。リアルタイムで僕の一挙手一投足が
垂れ流しになってる。僕は僕を見下ろしてる視線を感じるんだ。
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この感覚と同じものだと思われる。
ここまでのリアリティというか具体性は持ち合わせて
いないが、方向性は同じだ。
前近代の閉じられたコミュニティにおいて、人々が
ソトの世界や暗闇に憧れ、そして同時に畏怖の念に抱えたように
僕の思考する主体はどうもこのGhostを、内にありながらも
コントロールの効かない、あるいは話を聞く耳を持たない、
むしろソトの世界により親和性を持つ領域、
完全には同調できない領域と認識しているようなのだ。
そして、僕も僕の祖先たちと同様に、
わからないものを、とりあえずどうにか丸く納めるために
一個の塊、一個のシステムと捉えて、
それを擬人化して観察しているような感じがする。
このような一面化、塗りつぶしの行為は暴力以外の
何者でもないが、既存の価値観や自己同一性を守るための
アレルギー反応と考えると致し方の無いことのように思える。
僕は、Ghostという概念と出会うことで、それこそ、
Ghostが変容してしまったのだろう。
話を元に戻そう。
果たして、Ghostが一個のシステムとしてまとまったり、
思考する主体としての構造を形成するのかはわからないが
それを間近で観察する「僕」にとっては、
その、はっきりと聞き取れない囁きのような無秩序が、
逆に僕を観察する無数の価値観、無数の目のように
感じとられるのだ。
(Ghostの姿を変え続ける様子は、
「夏の青空に入道雲がモクモクと湧き上がって、
それが風に吹かれてバランスが乱れ、
ずずず、と崩れ落ちるイメージ」がしっくりくる。)
不可視の監視者としての性質を僕がそこに認める。
しかし、僕はそこに悪意を感じ取ることはできない。
確かに、無秩序な存在ではあるが、天候や、生物達の
不条理なメカニズムのような、「自然のもの」だという感覚が
強いのだ。
この「囁きの無秩序」は、まさに、
全てが為であり、全てが無為である、
全てが生であり、全てが死である、
全てが有であり、全てが無である、
「海」のイメージとぴったり重なるのである。
そして、僕はその、超越者のようであり、
赤子のようでもある無垢な共生者に対して、
意匠を凝らしたありとあらゆるアプローチを行い続ける
義務感のようなものを感じているのだ。
以上が、僕がどうにかしてGhostを捉えようとする
理由である。
さらには、なぜ、僕がアイデアをネットにアップロード
しないではいられないのか、という疑問も解消した。
僕は、Ghostからのリアプローチを欲している。
そのために、ウェブ上の匿名で不特定多数の他者に
自身のGhostを投影して、僕のアプローチに対する
評価の裁定を任せているのである。
すなわち、このブログに対する、みんなからの
反応を見れば、僕自身のGhostの、僕に対する評価の
ようなものが汲み取れるような気がしているのだ。
僕のGhostが僕の意思の主体と連続した存在で
あったように、僕の意思とWisdom of Crowdsもまた
不可分なものになりつつあるのかもしれない。
好むと好まざるとに関わらず、ね。