「わかる」とは別の仕方で | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ここでは「わかる」ということについて考えてみましょう。


「わかる」ことを巡って、二つの水準を設定します。


「わかる」と言っているかどうか。

そして、それぞれに「本当にわかっている場合」

「本当はわかっていない場合」があるでしょう。


「わかる」と「言う」水準は、外在的に観察することができる

ので、特に争うところはないと思います。

「わかるよ」と言うか、あるいは言わないか。

明瞭です。


問題は「本当はどうか」という水準ですが、

その「本当さ」には触ることが出来ません。

本当はどうなのか、わかっているのか、それともわかって

いないのか。

それについては、ぼくたちには考えることが出来ません。


どうしてか。それは、ぼくたちが言語を手にしてしまったからです。

というか「考える」ということも「言語以後」に構成されたもの

ですから、「本当さ」というのは、本当はどこにもないんです。

「本当さ」については、何も語らないところ、何も考えないところ、

ただ忘却の彼岸にだけその可能性の口が開かれているばかりです。



さて、だから、「わかる」ことについては、「わかる」と「言う」水準だけが

議論の対象となります。

本当はどうなのか、ということは「わかる」ことの得点から割り引いて

考えなければなりません。


この点を指摘したのは、一般に流通する「わかる」ということには、

「本当さ」の価値が先取されているからです。


ぼくは、「わかること」、つまり「わかると言うこと」に対して積極的な評価を

与えません。

「本当さ」と結びついて初めて「わかる」ということのマジックが働き出す

のであって、ただ「言う」のでは、どうにもならないし、また下手にそれを

信じるのは危険であると思うからです。


どう危険なのか。

「私にはわかる」と言ってしまうと、自分自身の言葉に固着されてしまい

ます。

ぼくたちは、「私にはわかる」と言うことによって、つまり何が言いたいのだと

思いますか?

それは、「みんなにはわかっていないことが私にだけはわかっている」という

他に対する己の優位をこそ言いたいのです。

しかしそれがいけないと言うのではありません。

いやもちろん、「ふん、何さ。お高く止っちゃってさ」なんて思って気に食わ

ないのは確かですが、他に対する己の優位の誇示、結構じゃないですか。


ぼくがちょっと待てよと言いたいのは、次のことです。


「みんなにはわからないことが私にはわかる」と「言う」ことから得られる

リターンが、最大化されるのはどんな場合でしょうか。考えてみてください。


そういうことを言う人にとって一番都合がいいのは、

前段の「わからない人」の数が増え、後段の「私にだけわかる」ことが

増えることです。

そうすれば、彼/彼女が「わかる!」と高らかに唱えることが、いよいよ強く、

いよいよ広く効果を及ぼすようになるでしょう。そうですよね?

そして、「前段の「わからない人」の数が増え、後段の「私にだけわかる」

ことが増えること」とは結局どういうことかと言いますと、それって要は、

「私以外のみんながバカで、私の考えはいつでもどこでも何でも正しい」

ということです。


「私にはわかる」と言う人は、明に暗に、そのことを望み始めます。

そうふるまうことが自らの利を最大化するのですから、当然の帰結です。


でも、そんなのってあんまり気持ちのいい世界じゃないのではないかと

ぼくには思われるんだけれど。

みなさんはどうでしょうか。


さて、最後に、「なら、わかるなんてないのか」という問いに答えておき

ましょう。


ぼくにはよく「わかりません」。「すいません」。


上の議論を受けても尚、「わかる」ということが在りうるとしたら、

それは「ああ、「それ」ね、わかるわかる」なんて、口が裂けても言ったり

「しない」ところに、あるんじゃないでしょうか。


よくわかんないけど、わかるよ。

ぼくにはそのように思われます。