「自分はすすんで大きな犠牲をはらっているのに、
それはおくびにも出さないで、ひとの犠牲をありがたく
受け入れるのは、簡単なことではないわ。そんなこと、
だあれも知らないし、だあれもほめてくれない。
でも、いつかはきっと、そのおかげで相手はしあわせに
なる。それが、たったひとつのごほうびだわね」
ケストナーさんは、これがひとつの、究極の倫理の
かたちだと、かんがえたんじゃなかろうか。
というのは、おばあさんが語ったのは、互いに強く愛し合って
いる人間の間で、そこにおいて首をもたげてくる問題について
の言葉だからだ。
愛を考えるには、いや、人間的なことの一切は、言語を抜くわけ
にいかない。
言語とは何か、それは、まずは他者である。
他者というのは、ここではあらゆるものに等しく与えられた存在、
「個」の発想だ。
個があって、はじめて愛もあるのだろうけれど、
でも、個があるところには、常にすでにして大きな喪失が前段に
経験されている。
それは、もうそこにはない、あらゆるものの満足の感覚、
あの遠い日の「現実」の、「憶えのない記憶」である。
そこからの追放、私にとってもはや世界が、流謫の地でしか
ないのだという、堂々巡りのままならなさ。
そして、罪障感、不穏さ。
いわば「痙攣する偽善」のようなものがある。
それはどこまでも自己欺瞞であり、ほんとうになんでもないような、
「つまらない迷惑」にすぎなかろうけれど、
でも、きみは「へえ、まあね」とか言って、微笑んでいる…。