エーミールのおばあさんによれば | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「自分はすすんで大きな犠牲をはらっているのに、

それはおくびにも出さないで、ひとの犠牲をありがたく

受け入れるのは、簡単なことではないわ。そんなこと、

だあれも知らないし、だあれもほめてくれない。

でも、いつかはきっと、そのおかげで相手はしあわせに

なる。それが、たったひとつのごほうびだわね」


ケストナーさんは、これがひとつの、究極の倫理の

かたちだと、かんがえたんじゃなかろうか。


というのは、おばあさんが語ったのは、互いに強く愛し合って

いる人間の間で、そこにおいて首をもたげてくる問題について

の言葉だからだ。


愛を考えるには、いや、人間的なことの一切は、言語を抜くわけ

にいかない。

言語とは何か、それは、まずは他者である。

他者というのは、ここではあらゆるものに等しく与えられた存在、

「個」の発想だ。


個があって、はじめて愛もあるのだろうけれど、

でも、個があるところには、常にすでにして大きな喪失が前段に

経験されている。


それは、もうそこにはない、あらゆるものの満足の感覚、

あの遠い日の「現実」の、「憶えのない記憶」である。


そこからの追放、私にとってもはや世界が、流謫の地でしか

ないのだという、堂々巡りのままならなさ。

そして、罪障感、不穏さ。


いわば「痙攣する偽善」のようなものがある。

それはどこまでも自己欺瞞であり、ほんとうになんでもないような、

「つまらない迷惑」にすぎなかろうけれど、

でも、きみは「へえ、まあね」とか言って、微笑んでいる…。