「反-価値」から「街場」へ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

□メモ:どうやって語ろうかしらん

|帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10545043083.html

生活は「素」、権威は「ベタ」、反-価値は「メタ」、街場は「ガチ」と

置き換えてもよい。


生活は思想を持たずに生きる。反省がない。

反省も思想もないが、行動それ自体がひとつの思考である。


権威は、生活=俗を否定する。

思想を持ち、それに埋没せんとする。

パターナリズムの語法はこれに特有である。

少しうるさい。


反-価値は、権威を踏まえ、状況=生活からの疎外を批判する。

あの「生き生き」=「見出された原風景」に還れ、と声を嗄らす。

反-価値はコミュニケーション=権威をも否定する為に、

その本来的、純粋な実践は「ランボオ的沈黙」となる。

いくらかおせっかいな人は、たとえばスターリンでありナチに

接近したハイデガーであり、彼らは手段としての権威を部分的に

肯定する。

その先に「輝かしき達成」があることは、もう誰にも信じてもらえない。

散々繰り返されているが、「ユートピア」とは「どこにもない場所」

なのである。


ちなみに、ぼくも同じようなことを考えていたのだが…。

□Lead me to your door.

|帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10427258929.html


街場とは何か。それは反-価値とは別のやり方である。

権威をやがて廃棄されるべきラダーではなく、あくまでそこに

いつまでも留まる「終の住処」として捉える。

その自然的必然に目を向ける。

街場においては達成はありえない。

それは「終らない努力」=コミュニケーションであろう。

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る(!!!)」