まず「考えること」について。
今、何でもいいのですけれども、何か考えることに
しますね。
しかし、それはいつでも「何かについて」考えるということ
であるはずです。「考える」ことについては「ただ考える」と
いうことはありません。
やってみてください。できないでしょう?
このように、「考える」ということはいつでも「客体」、「考え
られるもの」を必要としているはずです。
ですから、「「考える人」が「考えられるもの」について考え
ること」、それが「考える」ということになります。
ここでは「考える」ということを生成する動機の内にすでにして
「私ならざるものの予感」が含みこまれていることを確認して
おきましょう。
次に、「考えること」と「語ること」について。
ぼくたちは自由気まま、出鱈目勝手に考えているつもりで
います。
なるほど、たしかに私が勝手に「考える」ことは「他者」には
関係がないようです。
「独我論」では、ほんとうに実在するのは私の自我だけであり、
「他者」や外の世界の物事は自我の効果に過ぎない、と
考えます。
あるいは「胡蝶の夢」を想起してもよいでしょう。
この世界がほんとうに現実の世界であるのか、「夢の中」では
ないのか。それは誰にも言うことができません。
「夢の中」であるならば、ぼくたちがいつも見ているあれらの夢の
中でとる振る舞いと同様に、何をどうしようが人に文句を言われる
筋合いがないようです。
なぜなら、それは「私の考え」、「夢」だからです。
「私が勝手に考える」というのはほんとうに「自由」、「勝手」なこと
のように思われます。
ぼくがぼくの為だけに何かを考えるならば、ぼくの考えは「他者」
に理解されなくても、一向に構わないようです。
そうであるならばぼくはわざわざ「他者」を慮って、「他者」にも
理解できる「言葉」を採択する必要がないのではありませんか。
「他者」にも理解できる「言葉」を採択することから得られる便益と
反対に「他者」に理解できない「言葉」を採択することから得られる
便益とを比較考量して、よりメリットが増大するソリューションを
選択するのが合理的であるでしょう。
今、「他者」にも理解できる「言葉」を採択することとはどういうこと
でしょうか。
「他者」にも理解できる「言葉」を採択する、つまり「他者の言葉」
で語るということは、必然「私」の「自由」を損ねてしまいます。
たとえば、「ヤンキーの言説」、「ギャルの言説」、「腐れ学生の言説」、
「オッサンの言説」を考えてみると、それぞれ、
「尊敬する先公の話」とか「ダサいものについての話」とか
「女の子にモテて仕方ない話」とか「けいおん!!の話」とかについては、
たぶんできなくなってしまうでしょう。
それについて語るということはそれそのパーソナリティではない
ということを意味します。
なぜなら「ヤンキー」とは「反抗」であり「ギャル」とは「イケてる(死語)」
であり「腐れ学生」とは「非モテ」であり「オッサン」とは「最近の若者は…」
であるからです。
または「他者の言葉」は他者を慮って採択されようとしたのでしたが、
「校長先生」とか「部長」とか「チーフ」とか「先輩」とか「お得意先」
とか「偉い人」に「へつらって/慮って」語られたものがほんとうに「本音」
であるでしょうか。
本当に?
じゃあ「あなたヅラですよね」って言ってみてください。
「完全な」「真正な」「純粋な」「本当の私」の「本音」は「他者の言葉」
を迂回することで汚染され損なわれてしまう。
これはぼくたちの経験から考えて明らかなようです。
では「他者」に理解できない「言葉」の採択に目を向けてみましょう。
この場合、「みんな」に気を使うこともなく、楽で自由であるような
印象を受けます。
「他者の言葉」を採択することは「本音」を損ねてしまうようでした。
ならば、ぼくもここで「他者の言葉」を止めた方がよいでしょうか。
ジャヌベリルケーネゴニェプエオレクオジェヴォトミパデェトルトミ
ペケーナギュエボネンチェクダウェモコアウログフェロピァモネ
…ご安心ください。ぼくにも意味がよくわかりません。
これはどういうことでしょうか。
「「他者の言葉」がなければぼくたちは語ること、延いては考えること
ができないのではないか」
そういう疑いが生じてきます。
次にそれを考えてみたいと思います。