「タカハシさんの生活と意見」を
読んでいる。
ぼくも「自分がどうやって語っているか」ということに
思いを致してみようとするのである。
吉本隆明先生(カタカナだとちょっとうるさいかも)は、
「大衆」ということを考えている。
「大衆」は「下町の職人」の風貌をしている。
吉本先生は、そんな名もなく歴史の渦に消えていく
「下町の職人」と、「深甚なる教養」、「偉い」、「権威ある」
「大学の教授」と、どちらもその考えの到達が同じようで
あることを怖ろしく思う、というようなことを仰っていた。
このことはたぶん浄土教の「還相」の教えと深く関わりが
あるんだとおもう。
「還相」はまだよくわかんない。
けれど、『ライ麦畑』のホールデンの問題意識と
恐らく通底している。
さて、今回ちょっとだけ考えたいのは、
吉本先生における「大衆」、ニーチェにおける「大衆」、
そしてオルテガにおける「大衆」のマッピングである。
今日モンモンと考えていて、次の四つのカテゴリーを
使おうと思った。
「生活」、「権威」、「反-価値」、「街場」である。
だいぶ無理があるけれども、少し頭がスッキリしたので
よしとすることにしよう。
* * *
□「生活」
吉本先生における「大衆」
「下町の職人」、「生産者」、「道具」、日本の「世間」
「野生の思考」
□「権威」
ニーチェにおける「大衆」
「宗教」、「アカデミズム」、「マルクス主義」、「フェミニズム」
「間接民主制」
□「反-価値」
オルテガにおける「大衆」、ニーチェにおける「超人」
<子ども>の力、<老人>の力
「系譜学的思考」、「ランボー的沈黙」
□「街場」
オルテガにおける「貴族」
孔子、フロイト=ラカン、レヴィナス、デリダ
「市民社会」、「批評」、「大人」
* * *
「生活」について。
「生活」と「世間」はむしろ対立するものかもしれない。
しかし、互いが顔をうかがいながら互いを規定している。
「世間」を考えないで「生活」を語ることは出来ない。
「世間」を考えるにあたっては、以下のことに注意を
払いたい。
世間の問題は余りにも広い範囲に拡散しているが、
ぼくが注目すべきと考えるのは、ひとつは近代文学、
特に夏目漱石である。
夏目漱石の「三角関係」の問題は、後進近代化国に
特有な現象みたいなのだけれど、そこに「世間」が
表れてはいないか。
また「世間」は「記号」と大変に相性がいいのではないか。
ロラン・バルトの日本論を参照すべきと思う。
たぶんね。
それとレヴィ=ストロースの「野生の思考」は、
「世間」にも適用できるのではないか。
「世間」の捉えなおし、民主主義における逆用の可能性が
ありうると考える。
記号的表現の周辺には「世間」が表出される予感がする。
今日の記号的表現とは、「ファッション」、「芸能界」、
「マンガ」「アニメ」「ゲーム」があるだろう。
「権威」について。
「宗教」については、もう少し広く学ぶ必要がある。
軽々に断じることは避けたい。
「マルクス主義」、「フェミニズム」としては、
すでに耐用年数を経過していると思う。
マルクス自身の思想、そして、個々のフェミニストの思想
を考えていきたい。
「間接民主制」も、今ぼくたちは岐路に立っていると思う。
別の道も大いにありうる。
「反-価値」について。
これは「意味」も「価値」も追いつかない。
ただし、これもまた「生活」に回収されるかもしれない。
「街場」について。
今は「批評」を考えたい。
ブレヒトと中野孝次をたずねようと思う。