本稿は前編からの続きです。
□友だちなら押しつけないでしょ(前編)
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10543590134.html
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きみ(「住民」)を前にするぼくはどのように考えるか。
確かに、「アメリカ」や「首相」も恐いが、それ以前に、
隣にいるきみがちょっと恐い。
あんまりひどいことを言うと「ばかやろう」と殴られる。
(やっぱり「辺野古に住むかわいい女の子」にしよう。
どうせならそのほうがよい。ただ公正を期す為に「おっかない
性格」であることにする。)
だからいきなり「もうめんどくさいから辺野古の海をつぶせば
いいじゃんか」と言うことはできない。
とりあえず他をあたる必要があるのである。
だから、その点は「首相」の気持ちがわからないこともない。
「「結局廻りまわって辺野古」案」というのは、その意味では
リアルかつクールである。
少なくとも、「ほらね、やっぱり」と鬼の首をとったかのような
にこやかな(あるいは「悲痛に顔をゆがめる」)コメンテータ
よりかはマシである。
まず、「国内」「国外」で考えてみよう。
まずは「アメリカ」さんと話すわけである。
本当のことを言うと、「米軍国外撤退」は不可能ではない。
実際、お隣の韓国では(この言い回しは一番フェアだとおもうね)
米軍撤退の合意がすでになされているそうである。
じゃあうちはどうなんですか。
これはどうもよくわからないが、ぼくたちはそこへ
「想像力が及ばない」ようなのである。無条件に「また今度」となる。
ぼくもなぜかそれ以上つっこめない。
あれれ?まあ「現実的じゃない」よな…。
今回はここは仕方ない(ということになっている)。
* * *
次、「県内」「県外」。
このレベルでは、「他県民」たるぼくが、
「沖縄」の弱点に寄生するかたちになる。
あらゆる主張というものは解体可能である。
たとえば、「決め付けるのってよくないと思います!!」という
言葉を考えたい。
「「決め付けるのってよくない」って決め付けるのが
よくない」し、この言葉もまた「決めつけ=悪」という
価値を踏襲している為、同じことがメタにメタに、
延々と繰り返されることになる。
あんまりいい例じゃないかもしれない。ごめんね。
さて。沖縄の弱点というのは、沖縄の理念そのものである。
沖縄の「自由の尊重」、すなわち「基地反対」の声それ自体が、
「他県への押しつけ」を否定してしまう。
せめて「他県民」は沖縄への寄生を自覚しなければならん。
よい、悪い以前に、今までのところはそうしてきたのである。
「県外」案の破棄は、議論のためではなく、
沖縄の誇りによって為されたのである。
首相自ら「民主主義」を否定しているような気もするが、
ぼくも同罪である。
* * *
「県内」では、大別するに「市街」案と「自然」案がある。
ここでは「市街=環境は破壊しないが危険」か、
「自然=安全であるが環境を破壊する」かを
選ぶことになる。
結論から言えば、それは「自然」案しかない。
近年の「エコ」思想は、はっきり言って余りにも脆弱である。
「首相」をしてあえて「市街」案を取らせるほどの強度をもって
いないのである。
ぼくは基本的には「今更エコもクソもねえだろ」という立場
であるけれども、横にきみ(「沖縄住民」であり、「おっかない性格」
ではあるものの「美少女」だったことになった)がいる。
「故郷の自然破壊」はちょっとかわいそうだな、と後ろめたさを
覚える。
でも、たとえばぼくには「自然豊かな故郷」がない。
能登に祖先の墓はある。
墓はあるし、たしかに情緒ある土地である。
でもそれは「故郷」ではない。
故郷幻想がなくても人間は生きていける。
痛み、または痛覚の摩滅は伴うが、でも本当だ。
「都市民」は孤独だが、それでも死なないくらいに「人間幻想」は
鍛えられているのである。
ぼくは能登がぶっ潰されるときも、「墓は避けてや」くらいしか
言わない。
いずれにせよ上記の推論を辿る限り、この段階ではすでに「手遅れ」
である。
このあたりできみから一発ゲンコツをもらう。
辺野古が無理なら、国外移設しかない。
けれども、それくらい「非現実的な」「大きな」ことを考えるには、
もう少し想像力が必要なのである。
そして、残念ながら、2010年5月のぼくたちはそれだけの想像力を
持ち合わせていなかったのだ。